日本軍が慰安婦を強制連行したケース

吉見氏「従軍慰安婦 (岩波新書)」P125-127

 インドネシアでの暴力的連行
 インドネシアでも暴力的な連行は少なくなかった。オランダ軍の資料を使った大村哲夫の研究によれば、カリマンタン島のポンティアナック市では、一九四三年前半に、海軍派遣部隊の隊長が在留日本人の「蓄妾禁止令」を出すとともに、日本人と性的関係にある住民を強制的に収容する命令が出され、海軍特別警察隊が集めた女性たちが三ヶ所の海軍用慰安所と五、六ヶ所の民間人用慰安所に入れられたという(大村「「現地調達」された女性たち」)。
 四四年、戦局悪化のためアンボン島では、日本人慰安婦は後方にさげられ、八月には、地元の女性がいる慰安所も閉鎖された。しかし、海軍特別警察隊の将校の回想によれば、軍人の非行がつづくので、第四南遣艦隊司令部(正確には海軍第二五特別根拠地隊司令部か)の先任参謀の指導で、軍慰安所をもう一度設置することになった。慰安婦体験者、売春婦、売春のうわさがある者、志願者を対象にしてリストをつくり、本人に交渉するが、「ある程度の強制はやむをえない」ということになった。治安維持を任務とする特別警察隊が前面にでるのはまずいので協力にとどめ、副官が中心となり、政務隊(民政警察)が集めることになった。その指導にあたった司政官からこの将校が聞いた話によれば、サパロワ島でリストにのった女性を強引に船に乗せたところ、住民がぞくぞくと集まって、「娘を返せ!!娘に返せ!!」と叫んだという(禾晴道『海軍特別警察隊』)。集められたのは、ユーラシアン(この場合、白人とインドネシア人の混血)とインドネシア人だった。
 また、右のケースと一部重なるが、海軍第二五特別根拠地隊司令部付の主計将校だった板部康正の回想によれば、アンボン島で日本人慰安婦を帰したあと、司令部の参謀が四つの慰安所を開設し、約一〇〇名の慰安婦を「現地調達」する案をつくったという。それは「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を出し、「密告を奨励し」、「原住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているもの」を収容し、そのなかから美人で性病にかかっていない者を選んで、慰安婦とするというものだった(海軍経理学校補修学生第一〇期文集刊行委員会編『滄溟』)。彼は「倶楽部で泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を何度か聞いて暗い気持ちになったものだ」とのべている。

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