2009年に名誉毀損訴訟で敗訴し損害賠償を命じられた東中野修道亜細亜大学教授が、「歴史学研究で使えるのは三等史料まで」などと言いつつ自己の主張に都合のいい資料は、資料批判すらせずに利用していることは以前から言われていることです。
東中野氏の敗訴が最高裁で確定する前の、2006年に亡くなったja2047さんは、亡くなられる直前にこのように指摘しています。
ja2047 2006/07/30 22:00
ちょっとずつ付け足していこうと思います東中野氏の方法 1
「三等資料とは、一、二等資料を基にして、編集・公表したものである。以上の3つを根本資料といい、歴史学研究はここまでの資料に基づかねばならない。
四等資料とは、資料作成の時・所・作成者が定かではない記録、五等資料とは、資料作成者がいかなる方針で調整したか分からない資料、六等資料とは、それ以外の記録である。これらは単なる参考資料と呼ばれ、それだけでは何の証拠にもならない。」こう言っておいて
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060604/p4
「掲載元不明、報告者不明、日付不明、保管者不明の、新聞の切り抜きと思われる小片」=
良くて四等資料、厳密には六等資料
を根拠にベイツが国民党顧問であると断定する 東中野氏
多少なりとも真っ当に南京事件を研究した人で東中野氏のデマを信じる人は最早いないでしょうが、産経新聞のような右翼メディアは、南京事件に関する報道が事実上封殺されている現状に乗じて、東中野氏による南京事件否定論というデマの流布を大々的におこなっています。
ここで改めて、東中野メソッドについて復習することには多少なりとも意味があると思います。
「四等史料・五等史料の無批判な引用はプロパガンダ」
東中野氏による「「南京虐殺」の徹底検証」という南京事件否定論のプロパガンダ本には次のように書かれています。
(略)即ち歴史学で言う一等史料、二等史料、三等史料を無視することは、歴史研究から大きく逸脱している。史料作成者の明らかでない四等史料や、いかなる基準で作成されたのか分からない五等史料を、無批判に引用し、それらを歴史叙述の根拠とすることは事実無根の宣伝(プロパガンダ)である。
(P362・平成10年8月15日 第一刷)
まあ、この史料分類自体も一般的とは言えないそうですが、それはおきます。
大山事件の記述
一方で、東中野氏は同書中で以下のように大山事件(1937年8月9日)について述べています。
このような一連の事件をめぐる和平交渉が八月九日、上海で予定されていた。ところが、この日、上海で、大山勇夫海軍中尉(のち大尉)と斎藤與蔵一等水兵が支那の保安隊により虐殺された。そのため、会談は自然流会となった。と言うより、それを狙って、事件が仕組まれたと言った方がよいであろう。
たとえば、東亜同文会の『支那』昭和十三年九月号に、クロード・ファレールの「支那紀行」が翻訳転載されているが、そのなかでファレールは、大山中尉が「あるべからざる所に巧みに設置された支那軍の機関銃によって暗殺せられた」ことを、次のようにフランスの読者に紹介した。
《日本軍は驚嘆すべき冷静さを持してゐた。彼等は最も優秀なローマの警官の教える所を実行したのである。彼等は自動車にも死骸にも決して手を触れなかった。彼等は大上海の支那人の市長及び英米仏の官憲を招致した。待つ間もなく人々はやって来た。》
《人々は事件の検証を行った。一支那兵が虐殺されて、百歩以上の距離の所に横ってゐた。然し、その実地検証は、何等の意義も挿まれることなく、次のやうな事実を確認した。》
《即ち、この男は可愛さうにその同僚によって自動拳銃のために、背後から、射撃されたのであって、その後、その日本人暗殺に対して争闘のやうな色彩を与へる位置に曳いて行かれたのであった。》
支那兵は前方の大山中尉によってではなく、「背後」から(即ち味方から)撃たれていたというのである。その事実を検証者全員が異議なく「確認」したのであった。それは日本側の記録とも一致する。
こうして、大山中尉が支那兵を撃ったから、支那兵の方でも止むなく反撃したのだという支那側の主張は崩れ去った。
東亜同文会編『新支那現勢要覧』(昭和十三年)に、日本海軍陸戦隊の実地検証結果が出ている。それによれば、大山中尉は後頭部貫通の致命傷を受けて即死したあと、「頭部は二つに切り割られ、顔面半分は全く潰され、内臓を露出し、心臓部に拳大の穴をあける」などの暴行を支那の保安隊から受けていた。支那側の計画的な虐殺であったのである。
(P22-24・同書)
ここで引用されているクロード・ファレールの「支那紀行」ですが原書は、「Le grand drame de l'Asie」で別の訳者によって「アジアの悲劇」として日本語に訳されています。
さて、この引用部分は、まるでクロード・ファレール本人が大山事件直後の現場にいたかのような記載ですが、実際には大山事件が起きた1937年8月当時、クロード・ファレールはフランスにいました。ファレールがフランスを発ったのは1937年12月で1938年2月に来日しています。
日本政府、クロード・ファレールに叙勲
クロード・ファレールが来日していた1938年2月21日に、日本政府はクロード・ファレールに対して勲章を与えています*1。
その理由は公文書に次のように記載されています。
(略)支那事変当初より機会ある毎に敢然として我方の立場を支持したる等功績顕著なりとす(略)
東中野氏は新聞名も日付も不明の「新聞記事の切り抜き」を根拠にベイツ*2を中国国民党の工作員呼ばわりしていますが、その基準を用いるなら、日本政府から叙勲されたクロード・ファレールは日本の大物工作員と言えるでしょうね。
クロード・ファレールは叙勲の前後に日本軍占領下の中国を日本政府の手配で見学しているようで、その際に案内者から聞いて書いたのが「支那紀行」と思われますが、一体誰の説明なのか、どんな資料を参照したのかは全く不明です。
クロード・ファレールの滞在は1ヶ月程度に過ぎず、3月11日にはシンガポールに立ち寄り*3、5月にはフランスで日本擁護の宣伝活動を行っています。
クロード・ファレールの「支那紀行」は五等史料
大山事件当時にフランスにいたクロード・ファレールはもちろん当事者ではありません。つまり東中野氏が引用している「支那紀行」は一等史料でも二等史料でもありません。では、三等史料かと、一体どのような資料を用いたのかすら不明で、記述内容自体、当時の報道に照らしても誤ってます*4。
そうすると、クロード・ファレールの「支那紀行」は五等史料としか言いようがありません。
大山事件は中国軍の警戒区域に侵入した事が原因
こんなものを引用して「こうして、大山中尉が支那兵を撃ったから、支那兵の方でも止むなく反撃したのだという支那側の主張は崩れ去った。」と東中野氏は決め付けていますが、殺害場所を考慮すれば大山事件が中国側の陰謀でないことは容易にわかります。
つまり、殺害場所が虹橋空港正門前という点が決定的です。虹橋空港は当時、中国軍の軍専用の空港でこの付近は1932年の非武装化区域外ですから、当然に多くの中国正規兵がいました。さらに華北で日中両軍の衝突が起こってから、中国の保安隊が上海租界から虹橋空港に至る道路で通行規制を行っています。このため、普通に虹橋空港正門前まで行く事は不可能です。
さらに、大山中尉が直前に待機していた西部派遣隊本部から視察場所と主張している西部紡績工場地帯に向かうルートから、虹橋空港は大きく外れています。
なぜ、どうやって大山中尉は虹橋空港正門前まで行ったのか、行けたのか?
制服上着を脱いで民間人に偽装して通過し、虹橋空港を偵察に行った、と考えるのが自然でしょう*5。
空港正門付近で偵察中に中国兵に誰何され、中国兵を殺害し、逃走しようとしたが別の中国兵らによって銃撃され殺害されたものと思われます。
少なくとも、大山中尉が虹橋空港に行った理由は、偵察目的以外に説明できません。普通には侵入できない軍用空港正門前で、「待ち伏せ」などナンセンスにすぎ、中国陰謀説は無理がありすぎます。
東中野氏は「五等史料」のクロード・ファレールの「支那紀行」を根拠に中国陰謀説を唱えていますが、自身の言葉の意味を自分に対して考えてみるべきでしょう。
(略)即ち歴史学で言う一等史料、二等史料、三等史料を無視することは、歴史研究から大きく逸脱している。史料作成者の明らかでない四等史料や、いかなる基準で作成されたのか分からない五等史料を、無批判に引用し、それらを歴史叙述の根拠とすることは事実無根の宣伝(プロパガンダ)である。
(P362・平成10年8月15日 第一刷)
*1:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10113263600、叙勲裁可書・昭和十三年・叙勲巻十・外国人一(国立公文書館)」
*2:Miner Searle Bates、1897-1978。南京事件当時、安全区を運営したアメリカ人。日本軍による略奪、暴行、虐殺の証言者。ベイツ工作員説に対する指摘はこちらに詳しいです。http://www.geocities.jp/yu77799/bates1.html
*3:「支那 「ファーレル」翁ノ日本支持談」「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03024022900、各種情報資料・支那事変ニ関スル各国新聞論調概要(国立公文書館)」
*4:こちらで間違いについて指摘されています。 http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20110112/1294844907