これはなるほどと思った

「「疑問」の対象は常に自分の”外”にある。」

この記述。

それ(左翼の言葉遣いに対する幻滅:引用者)は、「硬直した古い考えや物事に疑問を投じる」という構え自体の中に、ある種の硬直性が現れていると感じられたからだった。その「疑問」の中には、既に硬直してしまっているかもしれない自分の考え方やポーズは含まれていない。「疑問」の対象は常に自分の”外”にある。だから彼らは攻撃的になれる。

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20121203/p1

「「疑問」の対象は常に自分の”外”にある。」というのは、なかなか興味深いです。
”試験紙”と称して、他者を分類しようとする人にとって、「「疑問」の対象は常に自分の”外”にある」のは確かでしょう。自分は常に判別する側にいる、と思っているわけですから。
しかし、他者を判別しようとする者は、その判別しようとする行為によって自己の党派性や偏見を露呈させます。今回、試験紙や踏み絵を持ってウロウロしていた人は、その試験紙の恣意的な適用によって、自らの党派性を露見させました。私を含めた一連の「大検証」作業は、私にとっては判別者の残念さを判断する良い材料になりました。
私に私自身の内部の矛盾が見えないように、彼らには彼ら内部に抱えた矛盾*1が見えないのでしょう。

批判ではないちょっとした疑問

先の引用の直前の部分。

因に大昔のことになるが私の中では、左翼とは「硬直した古い考えや物事に疑問を投じる」という構えのことだった。それは常に少数派の構えだった。それで10代から20代にかけては完全に左翼支持だった(どころか一時期、ロクな知識もないまま新左翼に片足突っ込みかけた)が、それ以降は徐々に、左翼(およびリベラル)の言葉遣いに幻滅するようなことが増えていった。

http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20121203/p1

似たような感想や思い出を他でも見かけることがありますが、これは世間の左翼運動の変容という要因と、自分の身分・立場の変化という要因がありますよね。

1960年代、70年代を通じた左翼的な運動は結局は大きく政治を動かすには至らなかったわけで、それを見つめる社会の目も期待から失望へと変化し、運動の主体となった団体自体も経時変化しています。運動の構成員自体も、当初は学生や独身労働者だった人も時間と共に、生活のため就職したり、結婚や出産で家族が出来たりすると、どうしても身を捨ててでもという覚悟が鈍りますし、それらの生活の安定を拒絶してきた構成員はそれ故に孤立感を深めることになります。これらは互いに様々に絡み合って変容していったわけで、その中の一部は先鋭化し、大部分は穏健な労組や革新的な思想と保守的な態度を併せ持つ労働者へとなっていきました。
このように観測された客体が変容したのは確かです。

一方、10代、20代で左翼支持であっても、30代、40代で家庭を持ち会社員としてもそれなりの地位に就くと、同じ事象を見てもその評価が変わるものです。人権を侵害されている人がいても、自分に関係のない人物であれば、その人物を救うために公安に目を付けられる危険を冒すよりも、現在の地位や収入、子どもの将来を優先するのが普通です。そして、過去10年以上の左翼運動が大した成果を為しえていない、あるいはこれから為しうる成果が期待できない場合、自分一人が参加したところで何の影響もない、という諦観に支配されます。
観測する主体も変容するのです。

「左翼(およびリベラル)の言葉遣いに幻滅するようなことが増えていった」のは、左翼内での先鋭と対立により実際に言葉遣いが変わったのか、それとも聞き手が諦観に支配されたのか、おそらくは両方なんでしょう。
「「疑問」の対象は常に自分の”外”にある」と思っていると、自身を支配した諦観を見出せないかも知れませんが。

*1:「ハシシタ」表現は差別で許せないが「汚沢」表現は差別じゃないので構わない、とか、「ハシシタ」表現も「汚沢」表現も駄目だが「鳩頭」表現はOK、とか、「ハシシタ」表現は駄目だが安倍氏の腹痛を茶化すのはOK、とか。