1938年6月27日に北支那方面軍参謀長の岡部直三郎から「軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件通牒」が出されています。
その主旨は、開戦から1年近く経っても、日本軍による住民に対する不法行為が目立ち、そのために反日感情を醸成させ、中共軍の民衆工作を手助けしていること、元々中国華北の村落には軍隊による強姦に対して報復する伝統があり、日本軍による強姦が単に犯罪というだけでなく日本軍の作戦行動そのものの障害となっていること、部下に強姦させないように性的慰安所を準備することを求めるものです。
(P23-26/349)
軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件通牒
昭和十三年六月二十七日
北支那方面軍参謀長 岡部直三郎
(略)
二、 治安回復ノ進捗遅々タル主ナル原因ハ後方安定ニ仕スル兵力ノ不足ニ在ルコト勿論ナルモ一面軍人及軍隊ノ住民ニ対スル不法行為カ住民ノ怨嗟ヲ買ヒ反抗意識ヲ煽リ共産抗日系分子ノ民衆煽動ノ口実トナリ治安工作ニ重大ナル悪影響ヲ及ホスコト尠シトセス而シテ諸情報ニヨルニ斯ノ如キ強烈ナル反日意識ヲ激成セシメシ原因ハ各所ニ於ケル日本軍人ノ強姦事件カ全般ニ伝播シ実ニ予想外ノ深刻ナル反日感情ヲ醸成セルニ在リト謂フ
三、 由来山東、河南、河北南部等ニ在ル紅槍会大刀会及之レニ類スル自衛団体ハ古来軍隊ノ掠奪強姦行為ニ対スル反抗熾烈ナルカ特ニ強姦ニ対シテハ各地ノ住民一斉ニ立チ死ヲ以テ報復スルヲ常トシアリ(昭和十二年十月六日方面軍ヨリ配布セル紅槍会ノ習性ニ就テ参照)従テ各地ニ頻発スル強姦ハ単ナル刑法上ノ罪悪ニ留ラス治安ヲ害シ軍全般ノ作戦行動ヲ疎外シ累ヲ国家ニ及ホス重大反逆行為ト謂フヘク部下統率ノ責ニアル者ハ国軍国家ノ為ト泣テ馬稷ヲ斬リ他人ヲシテ戒心セシメ再ヒ斯ル行為ノ発生ヲ絶滅スルヲ要ス若シ之ヲ不問ニ附スル指揮官アラハ是不忠ノ臣ト謂ハサルヘカラス
四、 右ノ如ク軍人個人ノ行為ヲ現住取締ルト共ニ一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整ヘ設備ノ無キタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス
(略)
六、 前述ノ諸項ハ従来屡々注意セラレシ所ナルカ其徹底特ニ実行部隊タル中隊以下ニ対スル徹底十分ナラサル感アリ此際特ニ下級部隊ヘノ徹底ヲ期シ信賞必罰ヲ以テ臨マレ度ク命ニ依リ通牒ス
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_2.pdf
この通牒が出される直前の1938年6月18日、北支方面軍による傀儡政権、中華民国臨時政府が蒋介石政権に対する態度を明確にする宣言を行っています。岡部直三郎は北支方面軍参謀長として王克敏と治安維持関係でのやりとりしています*1。そこでは治安維持に関しては、臨時政府の方でも努力して欲しいと要望しています。
しかし、日本軍内向けでは治安回復が遅れている原因として、日本軍による住民に対する不法行為があることを認識しています。それも不法行為の中でも強姦が、強烈な反日意識の原因となっていると述べています。
山東、河南、河北南部には、清末、民国初期から中央政府の統制が弱い地域があり、そういった地域では匪賊や軍閥軍に悩まされた経験から、紅槍会、大刀会といった自警団を組織しており、自分の出身地域に対する強い防衛意識があり、同時に余所者に対する強烈な排他意識がありました*2。この村落レベルの強固な郷土意識は、侵攻してきた日本軍による村落女性に対する強姦行為により強い反日意識へと変質していったわけです。その結果、日本軍が強姦事件を起こした村落の自警団は、そのまま反日遊撃隊となり、中共や国府の遊撃部隊に組み込まれていったわけです。
「各地ニ頻発スル強姦ハ単ナル刑法上ノ罪悪ニ留ラス治安ヲ害シ軍全般ノ作戦行動ヲ疎外シ累ヲ国家ニ及ホス重大反逆行為」と文言は、その危機意識を強く表しています。
そして「部下統率ノ責ニアル者ハ国軍国家ノ為ト泣テ馬稷ヲ斬リ他人ヲシテ戒心セシメ再ヒ斯ル行為ノ発生ヲ絶滅スルヲ要ス」と続きますが、本来罰して当たり前の民間人女性に対する強姦を、ことさら文言を要して犯人兵士を罰するように指示しています。その後「若シ之ヲ不問ニ附スル指揮官アラハ是不忠ノ臣ト謂ハサルヘカラス」と通牒は述べていますが、そこまで言わねばならないほど、部下将兵による強姦を見逃している部隊長が多かったということが伺えます。
慰安所設置という発想
4で、「軍人個人ノ行為ヲ現住取締ルト共ニ一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整ヘ」と述べているように、兵による強姦の取締りを強化すると共に、速やかに慰安所を設置せよと求めています。
軍隊が、軍事行動上、必要として慰安婦を要求しているわけですが、その要望が民間業者に伝えられた場合、業者がどのように慰安婦を集めるか、どのような事態が生じるか多少の想像力があれば容易に想像できることでした。
ニ・ニ六事件(1936年2月26日)を起こした青年将校らが政治に不満を持った理由のひとつに、農村出身の兵士を通して農村の疲弊を知ったことが挙げられます。徴兵された兵士らの姉妹が貧困のために身売りしていったわけで、それを悲劇と認識するのは当然のことでした。しかし、戦場から慰安婦を要求することが、そのまま貧困に苦しむ家庭から娘を身売りさせる悲劇につながる事に思いが至らないのは、やはり異常であり、無責任であると言えるでしょう。
まして、陸軍中央や政府が、慰安所設置のための女衒を公的機関が雇うことを公認したことは、女衒らが白昼堂々と活動し、詐欺まがいの募集や「皇軍のため」と宣伝できる土壌を作ったことになります。もっとも、そういった女衒らの行動を懸念した陸軍省はいち早く「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」(陸支密第745号、1938年3月4日)*3という通牒を北支方面軍及び中支派遣軍宛に出し、銃後の市民に動揺を与えるような不統制な募集委託を止め、憲兵警察と連携して軍の威信を損なわないように募集をせよ、と求めています。
女衒にとっては、詐欺まがいの募集や「皇軍のため」と宣伝はできなくなりましたが、委託者である軍が憲兵警察と連携することによって、逆に慰安婦募集に当たって女性やその家族と交渉する際に憲兵・警察の暗黙の了解を得ることができ、女性や家族に対してそれまで無かった圧力をかけることができたはずです。
そして、朝鮮や台湾のように地域社会で警察が圧倒的な権力を持っていた地域では、憲兵・警察の了解を得た女衒は「募集」にあたって容易に圧力をかけることができたでしょう。警察の存在自体が圧制の象徴であった植民地では、警察権力を背景にした女衒による募集は強制でしかなかったでしょう。
しかし、1938年6月には出先軍はもちろん、陸軍中央も政府すら慰安婦募集が引き起こす人権侵害に配慮しなくなり、ただ軍の威信を気にしていました。軍の威信を傷つける明らかな誘拐などは取り締まったものの、女衒がそれを逸脱しない限りは官憲が女衒の背後で女性に対する圧力となったのです。
結果として、徴兵された家族のある内地では主に公娼が慰安婦として募集されましたが、徴兵のない植民地では一般の貧困女性からも多く慰安婦として募集されたと考えられます。
そして、戦争が拡大し派兵規模が増加し慰安婦数の要求が拡大すると、官憲の圧力は強化された社会を背景に植民地では詐欺・拉致まがいの「募集」すら横行し、それでも賄いきれない慰安婦要求は現地での勝手な拉致強姦、売春強要へとつながっていったわけです。
上層部が何度言っても守らない下級部隊
「前述ノ諸項ハ従来屡々注意セラレシ所ナルカ其徹底特ニ実行部隊タル中隊以下ニ対スル徹底十分ナラサル感アリ此際特ニ下級部隊ヘノ徹底ヲ期シ信賞必罰ヲ以テ臨マレ度ク命ニ依リ通牒ス」
1938年6月時点で既に、「強姦をするな」「部隊長はちゃんと処罰せよ」と度々命じてきたにも関わらず「徹底十分ナラサル感アリ」といった状態だったわけです。
*1:「岡部直三郎大将の日記」P220-222
*2:そのため、ある村落を守る自警団は、他の村落にとっては匪賊になるということがしばしばありました。
*3:http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/zyuugunniannfub.htm