百田尚樹氏が流布するデタラメに対する指摘・6

岡村寧次大将の記録は?

 一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。
 「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
1)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
1)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」(『岡村寧次大将資料』)
 しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm

岡村寧次の記録は否定論者にとっては、のど元に刺さったとげだと言えます。何せ、日本軍の高級将校である岡村大将が南京事件から半年後に宮崎参謀、原田少将、萩原中佐らを介して聴取した結果、南京陥落後の数万の市民に対する略奪強姦、捕虜虐殺を事実と判断したという記録ですから。久保氏は「たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず」と何故か国際委員会の改善要求を持ち出していますが、宮崎参謀、原田少将、萩原中佐らが調べたのが国際委員会の文書ではないことは明らかです*1
例えば「第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。」などという判断は、日本軍内部の者でしか知りえない情報です。外部者である国際委員会が知りえることではありません。

久保氏は「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述は「南京においては事実ではありません」とも書いていますが、そのデマについては後述されている部分で改めて取り上げます。

『岡村寧次大将資料』より
 「第四編 武漢攻略前後」
 三 戦場軍、風紀今昔の感と私の覚悟
 私は、従来書物によって日清戦争北清事変日露戦争当時における我軍将兵の軍、風紀森厳で神兵であったことを知らされ、日露戦争の末期には自ら小隊長として樺太の戦線に加わり、大尉のときには青島戦に従軍し、関東軍参謀副長および第二師団長として満州に出動したが、至るところ戦場における軍、風紀は昔時と大差なく良好であったことを憶えている。
 それなのにこのたび東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢攻略に任ずるのであるから大に軍、風紀の維持に努力しなければならないと覚悟し、差し当り「討蒋愛民」の訓示標語を掲げることにした、それはわれらの目的は蒋介石の軍隊を倒滅することであって無辜の人民には仁愛を以て接すべしというに在った。
 上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
 註 後には荷物運搬のため俘虜を同行せしめる弊も生じた。
一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。
一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕らえられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであると云ったという。
 七月十五日正午、私は南京においてこの日から第十一軍司令官として指揮を執ることとなり、同十七日から第一線部隊巡視の途に上り、十八日潜山に在る第六師団司令部を訪れた。着任日浅いが公正の士である同師団長稲葉中将は云う。わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する、団結心強いが排他心も強く、配営部隊に対し配慮が薄いと云う。
 以上の諸報告により、私はますます厳格に愛民の方針を実行しようと覚悟を決めたことであった。
(『岡村寧次大将資料』(上) P290〜P291)

http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html#okamura

*1:少なくとも、国際委員会の文書だけを調べたわけではないと言えます。