「反省」だけで「謝罪」がないと朝日記事を批判した秦郁彦氏は、天皇の“おことば”にも同じ批判をすべきだと思う。

少し古いですが、秦郁彦氏は2014年8月12日に以下のように述べています。

 検証記事の話を事前に聞いていたので、いろいろと注文を出した。「すっぱりと反省とおわびをしなさいよ」と伝えたが、朝日担当者は「それはみんなで議論します」としか答えなかった。検証記事では「反省します」とだけ書いてある。みんなで議論した結果、「謝罪はしない」ということになったのだろうが、反省と謝罪はセットのはずではないか。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140812/dms1408121140003-n1.htm

つまり、2014年8月5日の朝日記事「慰安婦問題の本質 直視を」で「問題の全体像がわからない段階で起きた誤りですが、裏付け取材が不十分だった点は反省します。」*1と朝日が反省したことに対して、謝罪がないと秦氏は、批判しているわけです。

ちなみに「反省」とは「1 自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えること。2 自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること」という意味です。「問題の全体像がわからない段階で起きた誤り」に対しては十分な表現だと思いますが、秦氏を初め、日本社会の大多数は、これでは不十分だと思ったようです。少なくとも海外から、一連の朝日叩きが異常であると指摘されるまでは、日本社会はそう思ってたのでしょう。

「問題の全体像がわからない段階で起きた誤り」に対して「反省」では足りぬ「謝罪」せよ、という主張もまああってもいいとは思います。

では、一方的に侵略戦争を起して数百数千万の犠牲者を出した戦争行為や30年以上の植民地支配に対して、ただ「悲しみ惜しむ」あるいは「残念に思う」だけで謝罪しないのはどうなのでしょうか?

天皇が韓国に対して“謝罪”した事例として知られる一つが以下の発言です。

国賓 大韓民国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐

平成2年5月24日(木)(宮殿)
朝鮮半島と我が国は,古来,最も近い隣人として,密接な交流を行ってきました。我が国が国を閉ざしていた江戸時代においても,我が国は貴国の使節を絶えることなくお迎えし,朝野を挙げて歓迎いたしました。しかしながら,このような朝鮮半島と我が国との長く豊かな交流の歴史を振り返るとき,昭和天皇が「今世紀の一時期において,両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり,再び繰り返されてはならない」と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に,貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h02e.html#D0524

「痛惜」とは「ひどく悲しみ惜しむこと。」、「遺憾」とは「期待したようにならず、心残りであること。残念に思うこと。」です。謝罪もお詫びもありません。

秦氏にとって、「反省と謝罪はセット」だが、「痛惜」や「遺憾」は謝罪とセットではないのでしょうかね?