普天間移転問題は「もう過ぎ去ったこと、終わったこと」、少なくとも本土の人間にとっては。

こういうコラムが東京新聞で出ています。

【コラム】筆洗 2014年10月31日

 この問題はもう過ぎ去ったこと、終わったことなのだと言う人もいる。沖縄の普天間飛行場をどこに移設させるか、本当に名護市辺野古沖でいいのか。そういう問題である▼きのう告示された沖縄県知事選の大きな焦点となる問題だが、菅義偉官房長官はこう言っていた。「この問題は過去のものだ。争点にはならない」。昨年末に沖縄の仲井真弘多(なかいまひろかず)知事は辺野古の埋め立てを承認した。それで区切りは付いたとの見解だ▼だが当の知事自身が「まさに今進行中の課題」と言っていた。仲井真氏を含め出馬した四人全員がきのうの第一声で辺野古の問題を取り上げた。過去のものとする官邸と、現在進行形のものとして向き合う沖縄の人々。このずれにこそ、問題の本質はあるのかもしれない▼過去を見れば、戦争中に「本土の捨て石」とされて県民の四人に一人が死に、戦後も「基地の島」とされてきた事実がある。未来に目を向ければ、辺野古の美しい海を我々の代でつぶしていいのか、次の世代に渡さなくていいのかという疑問がある▼過去から未来へと続く問い掛けに対して「過去の問題だから、争点にはならない」と言うのは、答えになっているのだろうか▼先日八十八歳で逝去したドイツの作家ジークフリート・レンツ氏はこんな言葉を残している。<過去は去り行かない。それは現在にあって、我々を試している>

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2014103102000127.html

普天間基地移転問題に対する追及には同意できる点もありますが、鳩山政権が「最低でも県外」と宣言した時、本土がこぞって自分のところには来るな、とばかりに拒絶する態度を示していたのを思い出さざるを得ません。
“基地が集中する沖縄には同情する、しかし、自分たちが一部肩代わりするのはご免被る”という本土の本音が透けて出ていました。さらには国外移転すら“安全保障”という虚飾の前に主張しなくなったわけです。国外移転に反対、県外移転も自分たちのところへは反対、それは結局、沖縄に基地負担をこれまで通り押し付け続けるという本土の意思の表れであり、これまで通り“同情”だけで済ませようとする卑怯な良心の表れでしかありませんでした。
程なく鳩山政権は倒れ、以後誰も基地問題に触れようとしなくなり、自民党政権が復古してから以前通りの普天間移転が推進されることになりました。
仮に今後再び政権交代が起きるにしても、誰も基地問題には触れないでしょうね。
本土の本音は、米軍基地を沖縄に押し付け続けることにあり、表面だけで気の毒がってみせるだけですから。その意味では普天間移転問題は「もう過ぎ去ったこと、終わったこと」です。

  • 日本の安全保障上、沖縄に米軍基地は必須である。
  • 沖縄内の代替適地は辺野古しかない。

上記を不動の前提としておけば、本土の人間は自らの良心を痛めることなく基地負担の肩代わりを回避できます。
米軍基地を沖縄に押し付けていること、時折起こる米軍の事故・事件による県民の被害、工事で潰される辺野古の美しい海、それらは全て“可哀想だが仕方のない”として本土の人間にとっては感情的に合理化できます。

戦争中に「本土の捨て石」とされた沖縄にさらに基地負担を押し付ける安倍自民政権に抗議の声をあげる資格が本土の人間にありますかね。
基地問題で沖縄を「本土の捨て石」にしたのは政府だけではなく、本土の人間そのものでしょうに。
今後再び基地問題が盛り上がったとしても、“では本土に代替地を”と言われた途端に不動の前提を持ち出して、また沖縄を見捨てるんじゃないですか?