1937年12月13日 | 南京陥落 | 便衣兵狩り・捕虜処刑激化 |
1937年12月15日 | 漢中門外・漢西門外における大量虐殺 | 犠牲者:市民 2千人 |
1937年12月15日 | 魚雷営における大量虐殺 | 犠牲者:市民・捕虜 9千人 |
1937年12月16日 | 中山埠頭における大量虐殺 | 犠牲者:難民 5千人 |
1937年12月16日 | 下関における大量虐殺 | 犠牲者:難民 4千人 |
1937年12月17日 | 煤炭港〜上元門における大量虐殺 | 犠牲者:捕虜・市民 3千人*1 |
1937年12月17日 | 日本軍南京入城式 | |
1937年12月18日 | 幕府山事件 | 犠牲者:捕虜 5.7万人 |
1937年12月 | 上新河地区における大量虐殺 | 犠牲者:捕虜・難民 2.8万人 |
1937年12月 | 南門外における大量虐殺 | 犠牲者:捕虜2千人・難民5千人 |
1937年12月 | 燕子磯における大量虐殺 | 犠牲者:捕虜5万人 |
1937年12月 | 宝塔橋・魚雷営における大量虐殺 | 犠牲者:市民3万人 |
1938年3月28日 | 維新政府*2成立 | 南京事件がほぼ終息 |
1940年3月30日 | 南京国民政府*3成立 | |
1945年8月15日 | 日本敗戦 | |
1945年8月16日 | 南京国民政府崩壊 | |
1945年11月 | 国民政府、戦犯処理委員会設置 | |
1945年11月7日 | 南京大屠殺案敵人罪行調査委員会設置 | 首都地方法院検察庁による設置 |
1946年1月19日 | 極東国際軍事裁判所条例 | |
1946年2月15日 | 南京軍事法廷*4開廷 | |
谷寿夫の審理 | 個別虐殺850件以上、集団虐殺28件の審理 | |
1946年4月1日 | 東京裁判弁護団結成 | |
1946年4月29日 | 極東国際軍事裁判所に起訴 | |
1946年5月3日 | 東京裁判審理開始 | |
1946年10月28日 | 南京軍事法廷布告 | 被害者遺族の届出受付、臨時法廷設置 |
1946年12月21日 | 南京軍事法廷第3回調査尋問 | 400人以上の告発証言・証拠が提出、現場検証 |
1946年12月31日 | 谷寿夫を起訴 | 平和に対する罪、人道に対する罪 |
1947年2月6-8日 | 南京軍事法廷公開審理 | |
1947年3月10日 | 南京軍事法廷判決 | 谷寿夫死刑判決(犠牲者数34万人以上*5) |
1947年4月26日 | 谷寿夫死刑執行 | |
1948年11月4日 | 東京裁判判決 | 松井石根死刑判決(犠牲者数20万人以上*6 |
1948年12月23日 | 松井石根死刑執行 | |
1949年4月23日 | 南京解放 | 国民党政府敗退、共産党政府樹立 |
参考:南京軍事法廷の記録
1947年の南京軍事法廷判決で犠牲者数34万人以上、1948年の東京裁判判決で犠牲者数20万人以上が、南京事件の犠牲者数として認定されています。
南京法廷と東京裁判で認定数が異なるのは、東京裁判では死体が焼却などされて残っていない犠牲者についてはカウントしていないからです。南京法廷では死体の残っていない犠牲者数を19万人としてカウントしています。
ちなみに東京裁判が、死体の残っていない犠牲者を無視したかというとそうではなく、判決文には以下の一文が述べられています。
これらの数字は、焼却や長江(揚子江)への投棄、あるいは日本軍によって始末され死体が残っていない犠牲者については考慮されていません。
These figures do not take into account those persons whose bodies were destroyed by burning, or by throwing them into the Yangtze River, or otherwise disposed of by Japanese.
つまり、南京法廷も東京裁判もほぼ同程度の約30万人を犠牲者数として認定したと言えます。
さらに裁判自体が事件の規模に比して短期間だったこともあり*7、裁判内で認定するには証拠の準備が間に合わなかったようですが、埋葬関連記録として、慈善団体による18万5千体、個人による3万6千体、傀儡政権による7400体、日本軍による処分15万体などがあり、これらの合計は38万程度になり、記録に残っていないものも考慮すると40万という数字もあながち誇張とは言えません*8。
その他、国民政府の発表として、軍人20万人、市民23万人の計43万人の犠牲者数も東京裁判当時にあったようです。
要するに1950年頃には南京事件犠牲者数は30万〜40万人というのが基本的な認識として存在していたわけです。
*1:陳徳貴 http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/nankin2.htm
*2:日本の傀儡政権
*4:国民政府国防部戦犯裁判
*5:「日本軍に捕えられた中国の兵士、民間人のうち、中華門、花神廟、石観音、小心橋、掃箒巷、正覚寺、方家山、宝塔橋、下関、草鞋峡などで集団殺戮に遭い死体を焼き払われたものは合計19万人に達する。中華門、下満碼頭、東岳廟、堆草巷、斬龍橋等で個別に虐殺され、死体を慈善団体によって埋葬されたものは合計15万人以上に達する。その犠牲者総数は合計30余万人である」http://nanjingforever.web.infoseek.co.jp/nankinsaiban.html
*6:判決文「At least 12,000 non-combatant Chinese men, women and children met their deaths in these indiscriminate killings during the first tow or three days of the Japanese occupation of the city. / More than 20,000 Chinese men of military age are known to have died in this fashion. / Of the civilians who had fled Nanking, over 57,000 were overtaken and interned. These were starved and tortured in captivity until a large number died. Many of the survivors were killed by machine gun fire and by bayoneting. / Large parties of Chinese soldiers laid down their arms and surrendered outside Nanking; within 72 hours after their surrender, they were killed in groups by machine gun fire along the bank of the Yangtze River. Over 30,000 such prisoners of war were so killed. / Estimates made at a later date indicate that the total number of civilians and prisoners of war murdered in Nanking and its vicinity during the first six weeks of the Japanese occupation was over 200,000. That these estimates are not exaggerated is borne out by the fact that burial societies and other organizations counted more than 155,000 bodies which they buried. 」http://www.ibiblio.org/hyperwar/PTO/IMTFE/IMTFE-8.html