伊藤和子弁護士による「「片親引き離し症候群」のうそ」のうそ

前回のNHKコラムに対する批判をきっかけに少しウォッチしたところ、伊藤和子弁護士のやり口が結構見えてきました。
まあ、離婚・親権関連しか見ていませんので、ヒューマンライツナウはどうなのかは知りませんけど。

「片親引き離し症候群」(PAS:Parental Alienation Syndrome)という概念があります。簡単に言えば、一方の親が他方の親から子どもを引き離し、子どもに対し、他方の親を嫌うように仕向けることで、子どもが他方の親を嫌うようになってしまうことです。似たところとしては、ストックホルム症候群*1が近いでしょうね。
この他にもオウム真理教統一協会などのカルト団体内部での洗脳に近い概念とも言えるでしょう。

これに対して伊藤弁護士は、うそだと決め付けるエントリを2010年3月にあげています。

「片親引き離し症候群」のうそ
ハーグ条約にも関連しますが、最近DV事件で夫側がよく主張する「片親引き離し症候群」。ハーグ条約を批准せよという欧米の外圧の際にもしばしば引用されています。

http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5230.html

ブログ中では、全米少年裁判所/家庭裁判所裁判官協議会(NCJFCJ)*2やアメリカ心理学会*3、全米法曹協会が、このPASを否定していると伊藤弁護士は主張しています。
このうち、全米法曹協会の資料はリンク切れで確認できませんでした*4が、NCJFCJの方はAPAの資料を参照していました。NCJFCJとAPAの資料については確認しましたが、PASがうそだとかデタラメだとか言っているわけではなく、せいぜい安易に証拠として採用するのは推奨しない、という真っ当な意見です。

アメリカでは原則として離婚後も親子面会がされており、よほど問題のあるケースだけが面会が制限されているに過ぎません。そのごく稀なケースにおいて、別居親側が片親引き離し症候群を証拠として提出したため、それに対して、安易に採用しないようにという見解が出されたもののようです。
離婚後の親子引き離しが常態化している日本にそのまま適用できる話じゃありません*5

アメリカ心理学会(APA)の見解

01-1-08
Statement on Parental Alienation Syndrome
The American Psychological Association (APA) believes that all mental health practitioners as well as law enforcement officials and the courts must take any reports of domestic violence in divorce and child custody cases seriously. An APA 1996 Presidential Task Force on Violence and the Family noted the lack of data to support so-called "parental alienation syndrome", and raised concern about the term's use. However, we have no official position on the purported syndrome.

http://www.apa.org/news/press/releases/2008/01/pas-syndrome.aspx

(太字・引用ママ)

2008/01/01
片親引き離し症候群に関する声明
アメリカ心理学会は、全てのメンタルヘルス開業者が、執行官や裁判所と同様に、離婚や子の監護におけるDVに関するいかなる報告書に対しても真摯に受け止めなければならないと信じます。1996年の暴力と家族に関するAPAタスクフォースでは、いわゆる「片親疎外症候群」を支持するデータが不足していることを指摘し、その用語の使用に懸念を表明しました。しかしながら、アメリカ心理学会は、そのいわゆる症候群について何ら公的な立場を示しているわけではありません。
(試訳)

前半部分、特に「執行官や裁判所と同様に」の部分から精神科医らが離婚時の紛争において安易にPASの診断を下していた背景が分かります。内容的には「症候群」つまり正式な精神疾患としてPASを扱うにはデータが不足している、という指摘ではありますが、PASの存在をうそだと否定しているわけではないことがわかります。

全米少年裁判所/家庭裁判所裁判官協議会(NCJFCJ)の見解

こちらはもっと分かりやすいです。

Parental Alienation and the Daubert Standard: on Syndromes and Behaviors
(略)
The task for the court is to distinguish between situations in which children are critical of one parent because they have been inappropriately manipulated by the other (taking care not to rely solely on subtle indications), and situations in which children have their own legitimate grounds for criticism or fear of a parent, which will likely be the case when that parent has perpetrated domestic violence. Those grounds do not become less legitimate because the abused parent shares them, and seeks to advocate for the children by voicing their concerns.

http://www.stopfamilyviolence.org/info/custody-abuse/parental-alienation/national-council-of-juvenile-and-family-court-judges-rejects-pas

略した前半部分には、PASの概念を安易に利用すべきではない、的な話があります*6。PAS概念に頼らず、Daubert事件やFrye事件のケースを標準として考えるように、という指摘ですが、重要なのは引用した結論部分です。

他方の親に不適切に操作(微妙な示唆によって一方の親を全く信頼しないように)された結果として一方の親を子どもが非難している場合と、一方の親がDVを行なった時になるであろう正当な根拠を持って子どもがその親に対する正当な非難や恐怖感を抱いている場合とを識別することが裁判所の仕事です。
(試訳)

つまり、全米少年裁判所/家庭裁判所裁判官協議会(NCJFCJ)は子どもが「inappropriately manipulated by the other (taking care not to rely solely on subtle indications)」(他方の親に不適切に操作される)ことについてまで、否定していないわけです。あくまでも安易にPASと判定して、他方の親による不適切に操作と決め付けてはいけない、と言っているに過ぎません。
要は、子どもが別居親を嫌っているのは、実際に嫌われる原因があってのことなのか、それとも同居親によるプログラミングによるものなのか、裁判所はちゃんと判断するべきである、という至極当然のことでしかありません。

日本の場合、子どもが別居親を嫌っている言動を見せれば、家裁はほぼ自動的に別居親に嫌われる原因があると決め付け、面会交流を制限しています。実際に嫌われる原因があってのことなのか、それとも同居親によるプログラミングによるものなのかの判断などはされていません*7
こういった日米の基礎的状況の違いを踏まえずにPASをうそと決め付ける伊藤弁護士の態度はさすがに問題ありと言えますし、全米少年裁判所/家庭裁判所裁判官協議会(NCJFCJ)の報告の結論部分を無視するのは悪質なトリミングとも言えます。

しかも怖いことに、伊藤弁護士は現実の裁判でもそのトリミングした内容を提出し、面会交流の訴えを潰しているようです。

 私と一緒に事件をやってくれている弁護士さんと、インターンががんばってこうした最新の文献を翻訳してくれ、一件の裁判に提出したりしました。

http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5230.html

もし、相手方が実際にDVを子どもに対して行なう人物であったなら、まだ救いはありますが、実際にはDVなどしておらず「inappropriately manipulated 」の結果として子どもから嫌悪されているような事件であった場合、伊藤弁護士は不適切な証拠で、相手方の人権を不当に侵害したことになります*8。同時に子どもを、不適切な操作を行なう親、言わば精神的虐待の加害者の下に委ねたことになります。


日米の違い

片親疎外症候群(PAS)という概念は、別居親に対する子どもの否定的感情の原因を同居親によるプログラミングの結果とするものですが、実際に子どもの表面的な事象からその原因が別居親に起因するのか、同居親に起因するのか判断するのは容易ではなく、PAS概念の立案者であるガードナーらの判断基準による判定が科学的に妥当ではないという指摘がなされています。それ故に法的な判断において、PASという診断結果を証拠として採用できないわけです。

アメリカでは離婚後の面会が原則認められているため、子どもの否定感情と別居親の面会の要望についての判断は家庭裁判所にとって難題でした。子どもの否定感情が、真実、別居親の問題に起因するのか、それとも同居親によるプログラムの結果なのか、難しい判断を迫られたのです。それ故に、PASという概念はアメリカの家庭裁判所にとっては魅力的な概念だったわけです。全米法曹協会は以下のように述べています*9

PAS が複雑で,時間がかかり,苦渋に満ちた,医学的診断に対する証拠調べを軽減することを主張するものであるからである。PAS の起源及び法的に採用することにつき固有の着眼点は,人間の複雑な問題に対して,疑いもせずに,短絡的な答えをあてはめる,政策的なリスクを実証している。機能不全に陥った家庭に独特の力学が,型にはまった診断通りとなる可能性は低い

家族の問題については、個々の事情を丁寧に判断することこそ重要で安易な原則に頼るべきではないという指摘です。
一方で、日本の家庭裁判所は親権者決定や面会交流の可否判断にあたって、現状優先・母性優先という原則に縛られ個々の事情について丁寧な検討などはしていません。

全米法曹協会による「人間の複雑な問題に対して,疑いもせずに,短絡的な答えをあてはめる」というリスクは、日本の家庭裁判所や、女性のみが被害者、あるいは海外から子どもを連れ去った日本人の方がDV被害者と決め付ける伊藤弁護士のような人たちによって今もなお、継続しているわけです。

例えるなら、アメリカではPASがつりあった天秤のバランスを崩す概念となっていたからこそPASを法的証拠として用いてはならないと批判されたわけで、一方の日本ではそもそも天秤がつりあっていない状態なのでPASがどうのという以前にまずバランスがとれるように努力すべきという話になるでしょうか。


最後の部分。

 でも、よくあるんですよね、アメリカの理論だ、とか紹介されてとんでもない間違いが引用されていることが。そういうのにだまされちゃいけないし、海外の法制度や慣行は、専門家が自分の都合のよいところだけ引用するのでなく、本当に誠実に紹介していく責務を持っていると痛感します。

http://worldhumanrights.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5230.html

ええ、同感です。伊藤弁護士ご自身はその「誠実に紹介していく責務」とやらを全く果たしていないようですが。

*1:「被害者が犯人に、必要以上の同情や連帯感、好意などをもってしまうこと」http://www.angelfire.com/in/ptsdinfo/crime/crm3gsto.html 警察など自分を救出しようとしている人に対して敵愾心を抱くなどの症状が特徴です。

*2:伊藤弁護士は「アメリカの家裁裁判官協会」と訳していますが、正式名称は「National Council of Juvenile and Family Court Judges」なので、全米少年裁判所/家庭裁判所裁判官協議会の方が適切に思います。

*3:APA: American Psychological Association

*4:佐々木健札幌学院大学准教授が「ドイツ法における親子の交流と子の意思」の論文の中で、全米法曹協会の見解について、「法的問題としてPAS を捉えるときには,この理論が科学的正当性と信頼性を欠いていることを踏まえ,その証拠能力を認めないことが適切であると考えるのである。」と説明しています。

*5:日本における親子引き離しで生じる別居親に対する子どもの嫌悪感情が真実DVによるものだとしたら、日本はアメリカ以上のDV大国だということになります

*6:そもそも、実際に虐待されていた子どもが虐待した親を嫌うのは当然のことながら、子どもが親を嫌う様子だけを見た評価者からはそれが異常に見えてしまい、PASと判定されやすいという指摘があります。とは言え、それは、親を嫌うからには虐待があったに違いない、ということを意味しません。伊藤弁護士やハーグ条約反対派は、そのような論理のすり替えを多用していますが。

*7:むしろ、NCJFCJの指摘は、現状優先・母性優先で機械的に判断している日本の家庭裁判所にこそ向けられるべき指摘ではないかと思えますね。安易な道具・安易な原則に頼らず、個々の事例について真面目に考えろ、という指摘ですし。

*8:まあ、調停や審判ではうその証拠を出してもほとんど問題にされないようですが・・・

*9:「ドイツ法における親子の交流と子の意思」佐々木健札幌学院大学准教授