スマラン慰安所事件その他の事例

吉見義明氏の「日本軍「慰安婦」制度とは何か (岩波ブックレット 784)」は60ページほどの薄いブックレットですが、もちろん慰安婦否認論者はそれすら読もうとはしません。

(P35-38)
3 軍による強制は例外的だったか ― 第3の「事実」の検証
「歴史事実委員会」は、第3の「事実」として、つぎのように述べています。

 事実 3 しかしながら、明らかに規律違反のケースもあった。たとえば、オランダ領東インド(現インドネシア)のスマラン島では、ある陸軍部隊が若いオランダ人女性グループを強制的に狩り出し、「慰安所」で働かせた。しかしながら、この慰安所は、この事件が明るみに出た時、陸軍の命令で閉鎖され、責任のある将校たちは処罰された。これに関与した者や他の戦争犯罪者は、後にオランダ法廷で裁かれ、死刑を含む重い判決を受けた。

 スマラン慰安所事件は、広く知られるようになったので、「歴史事実委員会」もさすがに否定できなかったのでしょう。この事件での強制を一応認めています。しかし、この短い文章のなかに間違いが複数あることは、指摘しておかなくてはなりません。
 まず、スマラン島という島はありません。スマランは都市名です。つぎに、責任者の将校は処罰された(後でオランダによっても処罰された)と述べています。この最初の部分は、日本軍が処罰したと読むほかありませんが、実は日本軍は処罰をしていない、少なくとも厳罰には処していないのでです。反対に、責任者はその後出世しています。たとえば、南方軍幹部候補生隊隊長の能崎清次少将は、一九四四年に旅団長になり、一九四五年三月には中将となり、四月には第一五二師団長に出世しています。
 この事件は一九四四年二月、スマラン近郊の三つのオランダ人抑留所から、少なくとも二四名の女性たちがスマランに連行され、売春を強制されたというものです(当時、日本軍は、インドネシアにいたオランダ人を抑留所に抑留していました)。その後、逃げだした二名は警官につかまり、連れ戻されます。一名は精神病院に入院させられ、一名は自殺を企てるところまで追い込まれます。一名は、妊娠し、中絶手術を受けさせられています。
 ところで、スマラン事件のようなケースが例外的な事件でないことは、一九九四年のオランダ政府報告書をみるだけでも明らかです。日本軍がインドネシアを占領した初期に起こったブロラでの略取(監禁・レイプ)のケースはすでに見ましたが、この事件とスマラン事件以外にも、報告書は七件のケースを挙げています(前掲『戦争責任研究』四号参照)。
 第一は、マゲランのケースです。一九四四年一月、ムンチラン抑留所から、日本軍と警察が女性たちを選別し、反対する抑留所住民の暴動を抑圧して連行したというものです。その一部は送り帰され、かわりに「志願者」が送られます。残りの一三名の女性は、マゲランに連行され、売春を強制された、と書かれています。
 第二は、一九四四年四月、憲兵を警察がスマランで数百人の女性を検束し、スマランクラブ(軍慰安所)で選定を行い、二〇名の女性をスラバヤに移送したというケースです。そのうち一七名がフローレス島の軍慰安所に移送され、売春を強制された、と記されています。
 第三は、一九四三年八月、シトボンドの日本人憲兵将校と警察が四人のヨーロッパ人女性に出頭を命じたというケースです。女性たちはパシール・プチのホテルに連れて行かれて二日間強姦され、そのうち、二名は自殺を図った、と記されています。
 第四は、同年一〇月、憲兵将校が先のケースの四名の女性のうち二名の少女と他の二名の女性をボンドウオソのホテルに監禁したというケースです。他に八名が連行されたが、そのうち少なくとも四名が意志に反して拘束されたようだ、と記されています。
 第五は、マランのケースです。ある女性の証言によると、マランの日本人憲兵が三名のヨーロッパ人女性を監禁して、売春を強いた、と記されています。
 第六は、未遂事件ですが、一九四三年一二月、ジャワ島のソロ抑留所から日本軍んが女性たちを連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちによって阻止された、と記されています。
 第七は、パダンのケースで、一九四三年一〇月頃から、日本軍はパダンの抑留所から二五名の女性をフォートデコックに連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちが断固拒否したというものです。しかし、一一名が抑留所よりはましだと考えて「説得」に応じた、と記されています。
 この最後のケースも、食料の極端な不足など、抑留所の劣悪で絶望的な環境を考えると、必ずしも「自由意志」によるとはいいがたいものがあります。
 以上は、オランダ政府が、自ら持っている資料に基づいて、少なくともこういうケースがあったと述べているものです。白人の被害を中心に記述し、また、強制の範囲を非常に狭く取って解釈をしているのですが、それでも、日本軍が直接手を下した略取に限っても、これだけの事例をあげているのです。すでに述べた中国やフィリピンでのケースもあります。スマラン事件等が例外的なケースとはとうていいえないでしょう。

スマラン慰安所事件が例外的な事件でないことは、関係した将兵がほとんど処罰されていないことからも容易に推定できます。
つまり、もし日本軍の規律が厳正であったのならば、スマラン事件は日本軍にとって看過できない大スキャンダルであり陸軍刑法に照らして軍法会議で厳罰に処したはずです。能崎清次少将の処置もどんなに軽くても予備役にされる程度にはなっていたでしょう。
しかし、陸軍中央は日本軍による組織的な強制連行・強制売春が明るみに出た慰安所を閉鎖するだけで、関係者を厳罰に処することはありませんでした。このことはスマラン事件が氷山の一角に過ぎなかったことを暗示する事実と言えます。