鄭陳桃氏の場合

鄭陳桃氏は1922年11月14日台北生まれです。3歳の時に実母を7歳の時に実父を亡くし、継母と叔父に育てられています。中学に進んでいることから当初は継母や叔父が鄭陳桃氏を大切に育てていたと推測できます。しかし、鄭陳桃氏は結局卒業することができず中退となります。鄭陳桃氏16歳の時(1938〜1939年頃)、継母と叔父らによって台北近郊の板橋の林金という者に売られています。形式上は売春ではない住み込み女給だったようで、継母・叔父らもそのように認識してた節がありますが、売春することを要求されています。鄭陳桃氏が売春を断ると、林金は鄭陳桃氏を台南塩水にあった「月津楼酒家」を経営する柯鼻という者に売り飛ばしています。鄭陳桃氏はここで女給として働いていますが、17〜18歳の頃(1940〜1941年頃)には新竹の叔母の所に逃げていますが、月津楼酒家に連れ戻されています。
これらの状況から、形式上は前借金による年季奉公のような契約が継母・叔父と林金あるいは柯鼻との間で交わされていたことが推測できます。事実上の人身売買ですが、内地ですらほぼ野放し状態であったこの種犯罪を植民地台湾でまともに犯罪として取り組むことはまず期待できなかったでしょう。
鄭陳桃氏が新竹に逃げた行為についても、公権力の認識としては、人身売買被害者が脱出したというものではなく、奉公が辛くて逃げ出したというものだったと思われます。
鄭陳桃氏の証言に「当時、高校への通学途中、突然警察官にジープに乗るよう強要され」*1という話がありますが、新竹から台南へ連れ戻された際にあったことかもしれません*2。もし、そうだとすると、警察官の行為は職務の一環であり全面的に非難するのは難しいですが、人身売買が蔓延していた当時の日本帝国社会において、被害者にとって警察が何の頼りにもならなかったことを示す事実と言えます。あるいは、継母・叔父らが鄭陳桃氏に中学を辞めさせて女給として働かせるために本人に無断で契約し、警察の協力で林金の元に連れて行ったのかもしれません。あるいはその後高雄から逃げようとした時に警察に捕まり女衒の手に戻されたのかもしれません。いずれにしても植民地台湾において警察の黙認の下、人身売買が横行していたことの傍証と言えます。

1942年、鄭陳桃氏19歳の時、月津楼酒家から高雄の魏という者に売られます。形式上は「魏の妻は、原告鄭に対して看護婦の助手として読み書きのできる人が必要だから」*3という虚偽の理由による勧誘でした。当時、日本軍は東南アジア全域に侵攻し、多数の慰安婦を必要としていました。南方に派遣された軍が中国に展開している軍や植民地台湾に対して慰安婦を送るように求めている記録が残っています。
魏は当初から慰安婦を狩り集めるために日本軍に依頼された女衒だったのでしょう。女衒が慰安婦を集めるためには、第一に妓楼からスカウトする方法がありますが楼主にとっては金づるを手放すことになりますし、娼妓にとってもわざわざ危険で遠い戦地を望む者は多くありません。そこで第二の方法として、年季奉公している女性を雇い主から買い取るという方法を取ることになります。年季奉公の場合、雇い主にとっては娼妓のような金づるとしての価値がほとんどありませんので、本人と実家を納得させることが出来れば雇い主は金額次第で簡単に手放します。実家も貧困にあえいでいるのが普通で、本人ともども売春ではないと説明すれば、薄々感づいたとしても強く断れない場合が多いでしょう。それに実家は台南から遠い台北にありますから、女衒にとっては事実上実家の影響力をほとんど無視できます。
女衒にとって唯一重要なのが本人に承諾させることでしたが、鄭陳桃氏の場合は騙しという手段が使われたわけです。

こうして1942年6月4日、鄭陳桃氏は魏に連れられ高雄から貨物船「アサヒマル」でアンダマンに向かいます*4。この当時、台湾から南方への慰安婦渡航に際して外務省は旅券の発給を拒否していましたので、海軍徴用船で軍の証明書により渡航させたものと思われます。「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約(1910)」の第1条には「醜行を目的として未成年の婦女を勧誘、誘引若しくは拐去し又は詐欺若しくは強制手段に依り成年の婦女を勧誘、誘引若しくは拐去したる者は右犯罪の構成要素たる各行為が異なりたる国に亙りて遂行せられたると雖も処罰せらるべきものとす」*5とあります。条約では21歳を持って成年としていますが、日本は年齢条項を留保して18歳に引き下げています。このため、当時19歳であった鄭陳桃氏は条約上の未成年者としては扱われませんが、成年であったとしても詐欺による勧誘である以上、条約に反する違法行為が渡航に際して生じたことになります。日本軍はこの違法行為を黙認したわけです。

アンダマンは、チャンドラ・ボース率いる自由インド仮政府が(日本の傀儡とはいえ)支配できた唯一のインド領です。鄭陳桃氏は1942年6月から1943年8月頃までここで日本兵相手の売春を強要されました。1943年秋、サイパンに向かうためにアンダマンを離れますが、シンガポール対岸のジョホールで軟禁状態にされ、女衒も逃げ出し見知らぬ外国に放り出されています。1944年頃、無一文で放り出された鄭陳桃氏らは結局ジョホール慰安所に行くしかなく再び慰安婦とならざるを得ませんでした。もし日本軍に人道的な配慮が出来たなら、異国で路頭に迷っている帝国臣民である彼女らを助けて直ちに台湾に帰国させたでしょうが、日本軍は慰安婦になる選択肢以外何も与えなかったわけです。

ちなみにアンダマンには石川茂少将率いる日本海軍第12特別根拠地隊が駐留していました*6。部隊規模は1650人。訴状では「アンダマンは小さな島であり、海岸線に日本軍の基地があり、現地人は山間部に居住していた。日本軍と現地人との交流や接触は一切なかった。近くには集落といえるものも無かった。原告鄭の感じでは二千人位の兵隊が駐屯していた。部隊名は石川部隊といい(略)」とありますので、鄭陳桃氏がアンダマンに連行されたことは事実と見て間違いないでしょう。

1945年7月、「「見晴荘」に客として通ってきていた山口看護長と称する者」が帰国できるように手配してくれ敗戦間際の8月上旬に台湾に帰国しています。

鄭陳桃氏の主観で見れば、植民地台湾で児童労働・人身売買の被害に遭いながら警察に助けられることもなく、そのまま性搾取・性暴力の被害へと発展し自分を直接的に騙した女衒に背後で指示を出し渡航慰安所システムなどの支援を与えたのが日本軍だったわけですから、当然に日本の植民地支配、日本軍の慰安婦制度に問題ありと感じるでしょう。
鄭陳桃氏から見て、人身売買・強制売春の被害が発生した時点はいつか、というのは難しい話です。1938年〜1942年の人身売買被害を被っていた間、雇い主や女衒の背後に日本の官憲がどのように関与していたかについて、鄭陳桃氏には詳細に知りえません。「19歳でインドの「慰安所」に送られた鄭陳さんはその後生きた心地のしない悲しい5年間を送る」*7で言う5年間が、明らかに日本軍が関わった強制売春が始まった1942年を起点とするのか、それ以前の植民地台湾で官憲に黙認された人身売買の状態にあった頃を起点とするのかで終点が変わりますので、厳密な意味での強制売春の被害のあった期間が5年間と解釈するのは妥当とは言えません。
私の感想としては、台湾での人身売買被害期間である1940年に警察に連れ戻された経験が起点となっており、1945年に解放された時を終点として5年間と認識しているのではないかと思いますが、1942年にアンダマンに連行されてからの5年間としても、1945年に台湾に戻った後、継母・叔父から冷遇され辛い思いをしていますから1942年から1947年頃をもって「生きた心地のしない悲しい5年間」と認識していても別段おかしいとは思いません。

鄭陳桃氏の事例は、植民地台湾における人身売買の横行と警察による黙認という問題と日本軍による強制売春という問題が複合している事例と言えます。植民地台湾内での人身売買は年季奉公と言った伝統的な労働問題ではありましたが、それは容易に性奴隷を生み出す土壌であることを示しています。また、年季奉公に内在する人権問題・労働問題に対する当局の意識の希薄さが、戦時における軍用性奴隷を公的取締機関が黙認することにつながったとも言えるでしょう。公的取締機関の黙認の下、日本軍は半ば公然と性奴隷制度である慰安婦制度を女衒の元締めとして進めていくことができたわけです。

鄭陳桃氏が救出される機会は、1942年までに何度かありました。少なくとも新竹の叔母の所に逃げた時に公的機関が助けるべきでした。もっとも当の台湾人自体、当時の警察を信用してはいなかったでしょうけど。
1942年に慰安婦としてアンダマンに連行される際には、植民地台湾当局あるいは日本軍が渡航許可を出す時に本人に意思を確認すべきでした。アンダマンに着いてからでも慰安所を管理する日本海軍第12特別根拠地隊司令部が慰安婦として来島した本人に業務内容と就業の意思を確認すべきでした。ジョホールに置き去りにされた時も、同地を管轄する日本軍が本人を救済し、希望があれば帰国させるべきでした。
しかし、日本軍、植民地台湾当局のいずれもそれらの対応を取らず、それどころか慰安婦として使役したわけです。


1988年頃に起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件では、拉致を実行した犯人以外に強姦に参加した人間が多数いるそうです。監禁状態にあった被害者は抵抗できない状態でしたから、必死で抵抗する被害者に無理やり性行為を迫るというステレオタイプな強姦ではなかったでしょう。強姦罪には問われないであろう強姦でしたが、拉致そのものに参加してなければ、強姦しても構わない、と公言する人がいれば、その人間性が疑われますし、厳しく批判されるでしょう。

軍が直接強制連行したんじゃなければ問題じゃない、と主張する人は、拉致そのものに参加してなければ強姦しても構わない、と主張しているのと同じです。

残念なことに、我が国の首相はそのレベルで、参院選ではその首相率いる政党が大勝する見込みです。


参考:台湾の元「従軍慰安婦」被害者証言
参考:鄭陳桃 さん
参考:92歳の台湾女性、日本で講演 「慰安婦の歴史忘れないでほしい」
参考:台湾元「慰安婦」損害賠償請求事件 訴状

*1:http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201307070001.aspx

*2:「ジープ」自体は単純に屋根のない車程度の意味と取るべきで、米軍のジープに意味を限定するのは否定ありきの論に過ぎません。

*3:http://www.awf.or.jp/pdf/194-t1.pdf

*4:「朝日丸」「旭丸」の名称を持つ貨物船は数多くあり、特定できません。http://www42.tok2.com/home/fleet7/ships/SS_List001.html

*5:http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03033683300

*6:http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C08030258400

*7:http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201307070001.aspx