リベラルはもっと感情的に訴えるべきだと思う、但し、梶田記事とは違う意味で。

この件。
なぜ、サヨク・リベラルは人気がないのか…社会心理学で原因が判明!?
内容的には、まあ面白いと思います。

〈ケア/危害〉……苦痛を感じている者を保護し、残虐行為を非難すべし。
〈公正/欺瞞〉……ふさわしい人々と協力し、抜け駆けする輩を警戒せよ。
〈自由/抑圧〉……信頼できないリーダーによる不当な制限を退けよ。

〈忠誠/背信〉……チームプレーヤーには報酬を、裏切り者には制裁を。
〈権威/転覆〉……安定のために有益な階層関係を形成し維持せよ。
〈神聖/堕落〉……聖なるものを尊び、汚らわしいものを卑しめ。

http://lite-ra.com/2014/11/post-616.html

上記のうち、リベラルは〈ケア/危害〉〈公正/欺瞞〉〈自由/抑圧〉の3つのみを使い、保守は6つ全てを使う、というのはなるほどと思わされるところがあります。記事の結論としては、リベラルは感情に訴える力が弱い、もっと感情的に、という風にまとめられているのですが、その辺はさすがに異論あります。

そもそも、感情に訴える手法というのは、リベラルも以前はよく使っていました。今でも無いではありませんが。
一番わかりやすいのが、原爆被害を訴えるにあたって絵や模型を使い、視覚的に訴える手法ですね。平和教育でよく使われましたし、効果的でもあったと思いますが、それが真っ先に右翼によって潰されたわけですよ。1970年代くらいからですかね。
1990年代くらいまではリベラル側はかなり多くの平和教育のための教育的資産を持っていましたが、これがネットの普及によって覆されたと言えるでしょう。元々、リアリストを自称する連中は平和教育に対する反感を強く持ち、視覚的に訴える手法に対して“感情的だ”と非難してきたわけです。ネット上では、この手の非難が極めて効果的に使われ、結果としてネット上でのリベラルは極力感情論を排した主張に徹するようになったと言えるでしょう。これはリベラルの主張の論理性を向上させるのには役立ちましたが、一方でメッセージ性を弱める結果にもなりました。
緻密な理屈や理論は一般からは敬遠され、どんなに正確・精密に調査し論理を構築しても、それを読む人そのものを減らしてしまったわけです。かといって、被害者の境遇や悲惨さを訴えると直ちに、“感情論”というレッテルを貼られネトウヨによる誹謗中傷に曝され、炎上させられてしまい、やはりネットの炎上を嫌う一般からは敬遠される結果となったわけです。

記事で指摘されているように、感情的に訴える手法というのは基本的には効果的です。
例えば、“人を殺してはいけない”という倫理的な主張を理解させるのに、社会学や生物学、法律などの専門知識で何百万言を費やすよりも、人が殺されるということの悲惨さがわかる映像を見せたり身近な親しい人が殺されることを想像させたりする方が、圧倒的に効果的なのは言うまでもないでしょう。

近い例では、集団的自衛権行使容認の際に社民党が作成したポスターが挙げられるでしょうね。
あれは見る者の感情に訴える非常に優れたポスターでしたが、それ故に右翼からの攻撃に曝されました。

保守が最も恐れるのはリベラルが市民の感情に訴える手法

梶田陽介氏が「われわれリベラルも知性をいったん脇に置いて、“感情”という武器を再び手にとるべき時がきたのかもしれない」というのは、ある意味で正しいと言えます。それは保守がリベラルに対して用いる「反日」「売国奴」と言った罵倒をやり返すのではなく、市民感情に訴えるという意味でです。

実際、保守派が最も警戒しているのはリベラル側による感情に訴える手法と言っていいでしょう。

これは南京大虐殺従軍慰安婦問題を例に取ると浮き彫りにできます。
南京事件は犠牲者数に諸説あれど、多くの中国軍捕虜や民間人が虐殺されたという点においては、保守派にとっては渋々ではあっても認めざるを得ない状況です*1。であれば、南京事件を背景とした映画やドラマ、漫画があってもおかしくありませんし、海外で製作された映画が日本で上映されても良さそうなものです。しかし、それはほぼ皆無ですし、漫画などで取り上げた場合も右翼の執拗な嫌がらせや抗議によって潰されてもきました(「国が燃える」事件)。
従軍慰安婦問題については、放映しようとしたNHKに対し右翼議員である安倍晋三が介入したり、取り上げた漫画に対してネットで嫌がらせを煽られたりと妨害行為が行われました。
漫画や一番組に対してまでもここまで介入して妨害しようとするのは、それが映像や娯楽を通じて一般市民の感情に訴えることを忌避しているからと考えられます。
一般的なメディアや教科書で扱われることに対しては執拗に妨害する一方で、学術的に否定する熱意に乏しいことも証左のひとつと言えるでしょう。
一般市民は、歴史学会の学術的な論文など読みませんから、そこに何が書かれようと保守派にとっては大した問題ではないのです。

娯楽メディアでの露出が制限され、教科書から消え、博物館での展示も削除され、一部の専門的な学者内でのみ知られた事実として事実上の封印が為されるわけです。

安倍政権によって慰安婦問題は隠蔽されました。南京事件も程なく隠蔽されるでしょう。
その他の日本軍の戦争犯罪も例外なく一般社会から消され、アジア太平洋戦争において日本は一方的な被害者と扱われるか、誰にも責任のない運命的な悲劇として語り継がれるようになるでしょうね。

リベラルは自死を待つのみか

実際問題としてリベラル側にもう勝ち目はないと、私は思ってます。
しかしまあ、「10代の少女が自ら望んで故郷から遠く離れた戦場で言葉も通じない兵隊相手の売春婦になったというストーリーを信じる人」と書かれれば、反応するくらいの理性はまだあるようですから、ひょっとしたら一般社会が正気を取り戻すこともあるかもしれません。
10代の少女が故郷から遠く離れた戦場で言葉も通じない兵隊相手に売春を強要された事実を見て、迷うことなく「こいつはただの売春婦だ」と罵るほどにはイカレテいないのでしょうからね。
法律的な解釈をどうのこうの言うよりも、“故郷から遠く離れた戦場で言葉も通じない兵隊相手に売春を強要される10代の少女”という存在は、元慰安婦らに起きた悲劇を如実に物語り、戦場と軍隊の暴力性を一般市民の感情に訴えるものです。
多くのメディアが朝日記事非難や吉田証言非難に終始し、具体的に慰安婦とはどのようなものだったのかを自らの言葉で語ろうとしない理由もここにあります。慰安婦について語れば、どのように語ろうとその悲劇性に触れざるを得ないからであり、それこそが、池上彰氏や木村幹氏などの多くの論者が“慰安婦問題”についてのみ語ろうとし、“慰安婦”について語ろうとしない理由です。

リベラルがやるべきことは、知性や理論を背景・基盤として一般市民の感情に訴える主張を行うことだと思います。それを感情論だと論うネトウヨは主たる相手ではありません。訴える相手はあくまでも一般市民であり、一般市民を詐称するネトウヨではありません。それを間違えると無駄な消耗戦に陥り、最終的に敗れるでしょうね。

*1:少なくとも現時点では。将来はわかりませんが。