「白旗ヲ植立スルモノ数千」

昭和12年12月12日〜13日の十字街及び興衛附近戦闘詳報死傷表

京城の北東に十字街という集落があり、日中戦争中は中国軍の防衛拠点となっていました。1937年12月13日払暁に日本軍歩兵第38連隊を中心とする部隊が十字街に対する攻撃をかける準備をしていましたが中国軍が撤退しはじめたため、日本軍は追撃を開始します。この戦闘は散発的な反撃があったものの、ほぼ日本側による一方的な殲滅戦となりました。
実際、この12月12日〜13日の戦闘で日本軍歩兵第38連隊にはほとんど死傷者が出ていません。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111200400、歩兵第38連隊 江蘇省常熟県滸浦鎮附近戦闘詳報 昭和12年11月4日〜昭和12年11月15日(防衛省防衛研究所)」

  参加将校 参加下士卒 戦死将校 戦死下士卒 負傷将校 負傷下士卒
連隊本部 4 260
第一大隊 12 908 1 4 7
第三大隊 12 939 3 10
歩兵砲中隊 2 160
速射砲中隊 2 90
総計 32 2357 1 7 17

もちろん、戦闘自体が無かったわけではなく、日本側は多くの弾薬を消費しています。
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111200400、歩兵第38連隊 江蘇省常熟県滸浦鎮附近戦闘詳報 昭和12年11月4日〜昭和12年11月15日(防衛省防衛研究所)」

  榴弾 榴散 小銃 機関銃 拳銃 擲弾筒 榴弾
連隊本部 500 67
第一大隊 62 18700 9040 34
第三大隊 6500 5400
歩兵砲中隊 10
速射砲中隊
総計 72 25700 14440 67 34

小銃・機関銃だけで4万発以上を消費していますが、この戦闘で中国軍俘虜は一人も発生していません。

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111200400、歩兵第38連隊 江蘇省常熟県滸浦鎮附近戦闘詳報 昭和12年11月4日〜昭和12年11月15日(防衛省防衛研究所)」

五、戦闘後ニ於ケル彼我形勢ノ概要
敵ノ敗残兵ノ一部ハ南京城内ニ在ルモノノ如ク大部ハ下関ニ圧迫シタル 敵ハ其ノ退路ヲ失シ我ニ殲滅セラレタルモ極少数ノ敵ハ揚子江ヲ甫口ニ渡河シテ敗走セルガ如シ
下関ニ圧迫セシ敵ハ少クモ二万ヲ下ラザルガ如シ

第38連隊は十字街から下関への追撃で追い詰めた中国軍の数は2万人以上と記載しています。追撃に際し、渡河中の中国兵5〜6000人を殲滅しし、下関で少なくとも500名を掃蕩したともあります。

これが敗走中の中国兵を後ろから撃ちまくったという話なら、保守的思考では“戦闘行為”という言い方もできるでしょうが、別の史料にはこういう記載もあります。

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C11111205700、歩兵第38連隊戦闘概見図 昭和12年11月14日〜昭和12年11月26日(防衛省防衛研究所)」

十字街東方高地及紅山ノ戦闘

(略)
●払暁展開ヲ終リ攻撃開始ノ頃敵ニ退却ノ徴アリIハ直チニ追撃ス33iモ続テ追撃ス
●紅山ヲ占領ス
●連隊ハ予定ノ進出線ニ進出シタルモ旅団長ノ指示ニ依リ追撃前進ヲ為サズ
●旅団ノ予備隊、野砲、KK等前夜敵ノ敗残兵数百ト戦闘シ整理中
●午後二時追撃前進 夕下関ニ進入
●軽装甲車中隊ハ午前十時ヨリ追撃セシメアリ
●午前十時三十分和平門ヲ占領ス
●下関ニ至ル間ハ敵ノ放棄セル軍衣弾薬武器自動車等著大ナリ、死屍算ナシ白旗ヲ植立スルモノ数千
●下関ニテ直ニ残敵ノ掃蕩ヲナス

十字街から下関へ至る間で、多数の死体の他に白旗を掲げた数千の中国兵「白旗ヲ植立スルモノ数千」がいたとあります。
「白旗ヲ植立スルモノ数千」がどう処理されたかについては記載が見当たりません。

この12月12日〜13日の戦闘において、歩兵第38連隊はただの一人も捕虜をとっていません。将兵2400人中戦死者はわずか8名にすぎず、戦闘らしい戦闘は発生していません。
しかし、その一方で4万発の銃弾を消費しています。

「白旗ヲ植立スルモノ数千」はどこに行ったんでしょうね?