「文革の新常識」というほどの内容ではなかった

BS1スペシャル▽文化大革命50年知られざる“負の連鎖”〜語り始めた在米中国人」を見ました。
これについて梶谷氏が以下のように述べています。

(略)在米の研究者たちによって、従来の常識を覆す新事実が次々に明らかにされてきたからである。日本でも、ウォルダー教授の研究チームに加わっていた神戸大学の谷川真一氏らが近年精力的に研究成果を発表しており、その内容は研究者の間では徐々に知られるようになっていた。とはいえ、当事者へのインタビューや豊富な映像によってそのような「文革の新常識」が視聴者に明快な形で視聴者に示されたことは大きい。
 では、その「文革の新常識」とはなにか。それについて説明するためには、文革に関する「旧来の常識」について確認しておく必要がある。これまでの日本社会における文革認識は、一言でいうと「『大地の子』バイアス」ともいうべき固定化されたイメージでとらえられてきたのではないだろうか。すなわち、毛沢東を熱烈に崇拝する年少の「紅衛兵」が、「ブルジョワ反動的」とレッテルを張られた官僚や知識人を暴力的手段をもって糾弾し、打倒したというイメージである。だが、それは文化大革命の悲劇の本の序幕であり、文革を通じて吹き荒れたすさまじい暴力の一部分でしかない。

http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20161227/p1

梶谷氏のいう「これまでの日本社会における文革認識」というのは「毛沢東を熱烈に崇拝する年少の「紅衛兵」が、「ブルジョワ反動的」とレッテルを張られた官僚や知識人を暴力的手段をもって糾弾し、打倒したというイメージ」であり、「底辺に位置する者の造反=反逆という新左翼好みの図式」のことのようですが、そもそも「これまでの日本社会における文革認識」ってそうでしたっけ?
日本社会の文革認識って毛沢東による権力闘争という図式が基本で紅衛兵もそれに利用された、というものだと思うんですけどね。その紅衛兵にしたところで、新中国で「底辺に位置する者」ではなく、紅五類の学生どちらかと言えば特権階級に近いという認識でしょう。
矢吹晋氏の「文化大革命 (講談社現代新書)」(第一刷は1989年)でも権力闘争という認識ですし加々美光行氏もこう書いています。

歴史のなかの中国文化大革命 (岩波現代文庫)加々美光行
(P2-5)

1 日本人は文革をどう見たか?

 文革はその終焉直後からその悲惨な実態が明るみになるや、全否定的な評価が支配的となり、文革批判の大合唱がひとしきり起きた。その後の一時期、実証的な研究が部分的に試みられたものの、やがて論壇や学会でも断片的な議論や研究が残るのみになって今日に至っている。
 中国以上に日本の論壇、学会にとくにその傾向が強かったように思う。そこでまず日本のこの間の状況を見てみよう。
 文革が終焉して間もなく、それまで毛沢東文革を無条件に礼賛し、日本の学界、論壇をリードする立場にあった論者、たとえば安藤彦次郎、菅沼正久、秋岡家栄、菊池昌典、藤村俊郎、新島淳良などの諸氏(こうした人々を、以下、礼賛派と略称する)に対して、その責任を問う形で批判が噴出するようになった。
 元来、礼賛派を批判する人々の立場様々で一様でなかった。ただ文革期(一九六六年から七六年)を通じて毛沢東の中国に批判的であったがゆえに、当時また、学会や論壇の主流の論調が親中国に傾いていたこともあって、十分な影響力を持ち得ないできたという点で一致していた。批判者の立場は大きく分けて以下の二つに分類できる。
 まず第一のグループは、当時の東西冷戦体制の状況を反映して、自由主義陣営擁護の立場にくみして、反共産主義・反マルクス主義イデオロギー傾向から冷戦政策としての中国封じ込め政策を支持する人々だった。かれらは毛沢東の中国をスターリン主義的で専制独裁的国家とみなし、とくに文革毛沢東による政治的粛清の運動として強く批判した。こうした立場から比較的系統だった礼賛派批判を展開した代表的な人としては中嶋嶺雄西義之、辻村明といった方々をあげ得る。
 第二のグループは日本共産党(以下、日共と略)に属するか与する人々で、マルクス主義イデオロギーを持ちつつも、毛沢東の中国とくに文革期以後の中国を社会主義マルクス主義の原則から逸脱したものとして批判していた人々だった。
 日共はなぜ文革に批判的だったのか?文革勃発直前の一九六六年三月、日共訪中代表団(宮本顕治団長)が北京で毛沢東との会見を行った際、ソ連批判をめぐって激しい意見の対立が生じ、以来、日中両共産党は決裂状態となった。これを境に日共党内の親毛沢東的、親中国的な党員は党主流と対立を起こし、その大半が離党した。離党した親中国派は、前述のように論壇、学会の主流が親中国に傾いていたこともあってむしろその影響力を増大させ、当該から日共主流と対立することになった。
 日共党員あるいは日共に与する人々は、以上の経緯から、文革の悲惨な実態が明るみになるや、礼賛派がいかに事実を捻じ曲げていたかを激しく批判するようになったのである。こうした人々のなかで系統だった礼賛派批判を展開した代表的論者としては丸山昇、野沢豊などの方々をあげることができる。
 総じて礼賛派を批判する上述の二つのグループは、本来その政治的立場が自由主義共産主義とで異なるにもかかわらず、研究面では奇妙な一致を見るに至っていた。すなわち基本的に文革毛沢東の権力保身に発する政治権力闘争以上のものでなく、そこに何らの歴史的、思想的意義はなかったと断じて、全否定する傾向を持ったのである。
 のちに天児慧が日本の文革研究を整理展望した際、研究方法の分類の一つとして「パワー・ポリティックス・アプローチ」を上げたが、まさにこのアプローチこそ礼賛派批判の二つのグループに共通の特徴的な方法だったのである。さらに文革終焉後、このアプローチを基礎として、中国政治の権力構造の変遷に分析の重点を置く実証的研究が一時登場するが、文革に歴史的、思想的意義を認めないという点で変化はなかった。こうして礼賛派批判の大合唱とともに、権力闘争論あるいは権力構造分析論が、いっきょに学会、論壇の主役に躍り出ることとなったのである。

上の記載からは、もともと新中国を敵視していた反共右翼だけでなく、日本共産党も「基本的に文革毛沢東の権力保身に発する政治権力闘争以上のものでなく、そこに何らの歴史的、思想的意義はなかったと断じて、全否定する傾向」を持っていたことがわかります。
梶谷氏のいう「底辺に位置する者の造反=反逆という新左翼好みの図式」の「新左翼」が日本共産党から「離党した親中国派」を指すのであれば、文脈としては理解できなくはありませんが、日本共産党から離党した親中国派の「新左翼」が「これまでの日本社会における文革認識」を形成したというのは、まず事実に反していると思いますね。

さて。
梶谷氏は「文革における死傷者を伴う「暴力」には三つの異なる種類のものが含まれる」として、1966年の紅衛兵運動、1967年の造反派の奪権闘争、そして革命委員会による粛清を挙げてこの辺を「新常識」として述べています。ただ、この辺の話も既存の文革研究でも知られていると思うんですよね。
ウォルダー教授の研究の成果は文革による死者数の推移を示したことで規模を示したことであって、三つの異なる種類の暴力を示したことではないでしょう。

死者数の推移と関連事件

http://www4.nhk.or.jp/bs1sp/x/2016-12-23/11/14289/2737014/

文革期の死者数が最初のピークとなったのは1966年8月ですが、これは毛沢東紅衛兵に接見した月であり、文革の16か条が採択された月です。
紅五類は特権階級ではないと批判する「プロレタリア文化大革命における二つの路線」が出たのは1966年10月で、文革の16か条の2か月後です。この毛沢東による紅衛兵批判で文革期死者数の最初のピークは終焉しています。
一方でこれを機に造反派が生まれ、1967年1月から奪権闘争が始まります。
しかし、死者数の推移を見る限り奪権闘争が直ちに暴力を呼んだのではなく、死者数が急速に増え次のピークとなるのは1967年8月です。この1967年8月の急激な死者数の増加は造反派の暴走だけが原因ではなく、1967年7月の武漢事件をきっかけに人民解放軍を巻き込んだ文革派と実権派の対立が激化し、武闘に武器が持ち込まれるようになったという点が挙げられます。また、武漢事件後に林彪グループが勢力を拡大することに連動する地方での実権派との勢力争いという側面もあるでしょう。

さて、梶谷氏や番組が三つ目の暴力として挙げていた革命委員会ですが、革命委員会そのものは1967年1月に黒竜江省に設立されているのが最初*1で、革命委員会が広がっていく時期は奪権闘争と重なります(番組は、奪権闘争の後に革命委員会が作られたかのように思える構成になっています)。
梶谷氏は「造反派による奪権闘争が混乱を極めるなか、毛沢東ら党中央部は事態を収拾するために各地方に革命委員会を組織」と言っていますが、実際にはほとんどの奪権闘争は、現幹部を追い出すのではなく、幹部・造反派・解放軍といった三者結合の革命委員会方式で行われています。
1967年7月の武漢事件以降の奪権力闘争では、林彪グループ(解放軍)が革命委員会に占める割合が増えています。林彪グループの影響力が増大するのに合わせて、2回目の死者数のピークが生じています。このピークは1967年10月以降に減少しますが、この頃、毛沢東林彪の軍事的権力の拡大に対する牽制として、革命委員会の簡素化、労働者階級の優先、党組織の再建を図っています。

1968年の死者数ピーク

番組では革命委員会の設立がそのまま大規模な粛清につながったかのような構成になっていましたが、革命委員会の設立時期や構成割合を見る限り、そう単純な話ではなく、1967年10月にやや沈静化した死者数が1968年2月後、特に4月から再度上昇に転じたのも別の原因が考えられます。
一つ考えられるのは1968年3月の楊成武事件です。実権派の総参謀長代理であった楊成武が解任された事件で以降、軍事委員会が弱体化し、文革派の権力掌握が進みます。1968年は解放軍を含む権力を文革派が掌握していく過程であって、1968年の死者数はその影響を受けていると見られます。1968年10月の八期十二中全会で文革派による権力掌握がほぼ確立し、同時に林彪グループの権力拡大に対する毛沢東の牽制(労働者毛沢東思想宣伝隊による武闘収拾)によって死者数も急速に減少していきます。
林彪グループによる指導体制が確立した1969年4月の第九回党大会以降、死者数は1967年前半並みに減少します。
(1970年2月の死者数の理由についてはよくわからない)
この1968年の死者について、梶谷氏の言うような「明らかに権力による白色テロという側面」という表現が適切かどうかは少し微妙におもえます。

*1:山西省が先との記載も。「歴史の中の中国文化大革命」P124