イザベラ・バード「朝鮮紀行」より、日清戦争時の日本軍・日本人

朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

 日本軍が入ってきて、住民の大部分が逃げ出したのを知ると、兵士は家屋の木造部をひきはがした。往々にして屋根も燃料やあかりに使った。そして床で燃やした火を消さずに去るので、家屋は焼失した。彼らは避難民が置いていった物品を戦闘後三週間で略奪し、モフェット氏宅ですら700ドルに相当するものが盗まれた。氏の使用人が書面で抗議したが、略奪は将校も現場にいて容認されていた。このようにして朝鮮で最も栄えた都の富は消えてしまったのである。「生木のとき」[繁栄の時代]の戦争の結果がこうなら、「枯れ木のとき」はどうなるのであろう。
 そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず、また、日本軍が引き上げれば、訓練隊がのさばることもよくわかっていた。訓練隊は日本人から教練と武器を受けた朝鮮人の連隊で、すでに人びとに暴力をふるったり物を盗んだりしはじめており、行政当局に公然と反抗していた。わたしが二度目に訪れたとき、目抜き通りはあちこちで建物の解体と建築が行われ、おおわらわの様相を呈していた。日本の商人が商業用の一等地をすべて買い上げ、小さくて暗くて低い朝鮮の店舗を大きくて明るくて広々してこぎれいな日本の建物に改築していたのである。新しい店舗には日本の商品がふんだんに取りそろえられ、とくに灯油ランプはデフリーズ&ヒンクス社の特許権もそしらぬ顔で侵害し、あらゆる型と値段のものがそろっていた。

(「朝鮮紀行イザベラ・バード、時岡敬子訳、講談社学術文庫、1998、P403-404)

後の日中戦争に比べれば、日清戦争当時の日本軍のモラルは高かったといえるだろう。しかし、それでも尚、占領直後の平壌では、住民が逃げて無人となった町から略奪や放火を行っていたわけだ。しかも将校もそれを止めようとしていない様子が伺える。

占領から3週間を過ぎて、漸く軍の統制が回復したのだろうか、少なくとも略奪・放火を公然と許容できる状況はなくなったようだ。あるいは、外国人を含む住民が避難先から平壌に戻ってきたためかもしれない。

もう一つ、日本の民間人であるが、平壌の戦いを利用して、土地を買いあさった様子も示されている。そして、特許権を無視したコピー商品すら扱う商魂を日本の民間人は示していたようだ。

この当時、朝鮮半島にいた日本人居留民はわずか1万人程度だったから、この平壌の土地を買いあさった日本人はかなりの山師だったのだろう。そしておそらくは、かなりの富を築いたことだろう。

在朝鮮日本人居留民の推移 - 誰かの妄想・はてな版


最後に「訓練隊」であるが、日本が教練した朝鮮人の「訓練隊」に対する評価はどの本を見ても概して低いのだが、一方でロシアが訓練した朝鮮軍*1についてはそういう話をほとんど見ない。「朝鮮紀行」は1897年の作で、ロシアが朝鮮に介入し始めたころであるためか、ロシアが訓練した朝鮮軍に対するイザベラ・バードの評価は定まっていないようだ。

ひょっとしたら、ロシアが訓練した朝鮮軍は高給であったのに対し、日本が訓練した訓練隊は薄給で質の悪い兵士ばかり集まったのかも知れないが、その仮説を裏付ける史料は現在のところ見出していない。

*1:朝鮮紀行」P540