林広茂氏自身は経営の出身であって、歴史を専門とはしていない様子。
そのためか、そのあたりの見解では若干おかしな点が見受けられるが、資料として価値は高いと思う。
http://www.jkcf.or.jp/history/3/05-03-1j_hayashi_j.pdf
で、この資料のありかを提供したのは、この嫌韓バカ。
(・∀・) 2009/01/26 23:36
ソース
http://www.jkcf.or.jp/history/3/05-03-1j_hayashi_j.pdf
http://fromseoul.cocolog-nifty.com/fromseoul/2006/06/post_45b5.html当時のソウルには三越の京城支店があったよ
大阪支店を抜いて、三越の全支店中、売上トップ
お客の大半が韓国人だったし、
ソウルの女学生たちも夏休みにバーゲンセールに行ってる優雅な植民地だよ
インドやアフリカにハロッズの支店ってあったか?アメリカなんぞ、オバマは先の就任演説で、「父はレストランにも入れてもらえず追い返された。私も小さいころに差別あった。」って言ってたな。差別に負けてヤクに手を出した時期もあると自伝に告白してたしな。
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20081012#c1232953700
最近までアメリカ本国でもこんな状態だったのにも関わらず、1900's初頭の世界の黒人や植民地の土人に対する状況はどうだったのか、と。イギリスの印度に対する態度も。
資料自体には価値があるのだが、嫌韓バカの口を通ると価値のない妄言に変換されてしまう。嫌韓バカには役に立たない機能ばかりついているようだ。
嫌韓バカは資料が読めない。
例えば、
大阪支店を抜いて、三越の全支店中、売上トップ
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20081012#c1232953700
この部分だが、該当する箇所はP141。
P141
http://www.jkcf.or.jp/history/3/05-03-1j_hayashi_j.pdf
三越京城店は当時すでに全三越グループのなかの超優等生だったが、特に昭和19年〜同20年にかけて全支店中ナンバー・ワンとなり日本橋本店に次いで第2位にランクされた。
1944年から1945年にかけて日本本土は、空襲でぼろぼろになっていくわけでそれらと比較して売上*1が高くても大して意味があるとは思えない。実際、P140の図表11を見ると、三越京城店の売上は以下のようになっており昭和18年をピークに下降している。
時期 | 三越京城店の売上 |
---|---|
昭和16年 | 10,003千円 |
昭和17年 | 10,705千円 |
昭和18年 | 11,148千円 |
昭和19年 | 10,179千円 |
昭和20年 | 6,813千円 |
空襲の状況
東京空襲 | 1944年11月〜1945年8月 | 106回 |
大阪空襲 | 1944年12月〜1945年8月 | 50回以上 |
京都空襲 | 1945年1月〜? | 20回 |
神戸空襲 | 1945年3月〜1945年6月 | 3回 |
また、1944年にはサイパン島が陥落し、戦局の悪化が誰の目にも明らかになり、国民の間には厭戦気分が広がっている。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hosigarimasen.htm
あと、嫌韓バカが言ってる「大阪支店」云々はこの資料にはない*2。
おそらく、本人は資料を読まずにどこかで評価されていた文章を斜め読みしただけだろう。下手すると、ただのコピペ*3。
最後に重要な点だが、この当時の百貨店は必ずしも一般顧客相手の商売だったわけではない。太平洋戦争開始以降は物資統制が厳しくなっていったため、いずれの百貨店も軍官の御用商人化の傾向を強めていくのである。従って、売上にはこういった軍需も含まれている。
そして、1944年ころになると、日本の海上輸送能力がぼろぼろになり、戦力策源地としての日本本土の役割が低下し、代わって中国戦線での日本軍を支える戦力策源地として朝鮮を機能させることになる。京城支店の好調は空襲の危険のない朝鮮で、この軍需を支えたことによると考えられる。
嫌韓バカは朝鮮支配の変遷を理解できない
お客の大半が韓国人だったし、
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20081012#c1232953700
ソウルの女学生たちも夏休みにバーゲンセールに行ってる
優雅な植民地だよ
インドやアフリカにハロッズの支店ってあったか?
嫌韓バカは時期を無視するか、あるいは理解できないか、の顕著な傾向を示すが、これもその一例であろう。
該当する箇所はP131にあるが、これは大体1930年代前半の描写。1919年の3・1独立運動の結果、朝鮮総督府はそれまでの武断政治を改めて朝鮮人を懐柔する方法をとるようになっている。
これによって、朝鮮人の中にも日本支配を受け入れる者、独立の為に利用しようとする者、あくまで抵抗する者などの違いが現れるようになってくる。
「独立の為に利用しようとする者」は、例えば1929年の光州学生運動のような活動を行っているわけだが、都市部の比較的裕福な層などは「日本支配を受け入れる」傾向がありこういった者たちが、日本系のデパートでの買い物をしているわけだ。また、これには世代的な差も生じている。
武断政治時代を知っている30〜40代、併合前を知っている40〜50代、日本の支配が強化される日露戦争前を知っている50代以上でも当然差はあるだろうが、それらを全て知らない10〜20代の傾向はまた受け入れ方が違うだろう*4。
林氏はこれを次のように評している。
P143
http://www.jkcf.or.jp/history/3/05-03-1j_hayashi_j.pdf
朝鮮は日本の植民地であって、選択の余地がない状態で、反対も抵抗もできないまま日本適応化が進み、朝鮮人は日本人適応化することではじめて平穏な生存の道が開かれていた。
また、これを支えたのが、日本人による日本文化の持ち込みである。
P143
http://www.jkcf.or.jp/history/3/05-03-1j_hayashi_j.pdf
朝鮮に居住した日本人は支配民族の当然として、朝鮮でも日本での生活を再現しようとした。百貨店は日本人がそのライフスタイルを維持するために不可欠な商品を提供する場所で、日本製及び在朝鮮日本企業による朝鮮製の日本商品を販売した。
こういった世代間ギャップは戦前戦後の日本にもあった。戦前では、大正末期〜昭和初期にかけての退廃的な風潮が蔓延り、そういった世相を体現した若者と年寄りの間にギャップが生じているし、戦後は戦後で、アメリカ文化一辺倒に偏り、やはり年寄りが眉をひそめる、という状況が生じている。そして世相に染まる若者たちがいる一方で、社会問題に取り組む若者たちもいた。
アメリカ公民権運動でも同様の構図は見られるし、1929年の光州学生運動に参加した若者もそういう人たちだったのだろう*5。
一部を取り上げて差別はなかったとか主張するのが、嫌韓バカの詐術*6。
ああちなみに、インドやアフリカはよく知らんが、イギリスの植民地だったシンガポールには、John LittleとかRobinsonsとかのイギリス系デパートが19世紀からあるよ*7。
アメリカなんぞ、オバマは先の就任演説で、「父はレストランにも入れてもらえず追い返された。私も小さいころに差別あった。」って言ってたな。差別に負けてヤクに手を出した時期もあると自伝に告白してたしな。
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20081012#c1232953700
最近までアメリカ本国でもこんな状態だったのにも関わらず、1900's初頭の世界の黒人や植民地の土人に対する状況はどうだったのか、と。イギリスの印度に対する態度も。
韓国・朝鮮人の場合、見た目が日本人と変わらないので、アメリカの黒人差別とは違った形態をとっているだけで、差別自体は残ってるよ。徐々に改善されているけど、ちょっと前はかなりえげつない差別があったし。
*1:明示されていないが、直前で売上の話題になっているので、売上と判断した
*2:まあ、日本橋本店>大阪支店という序列を前提とすれば成り立つのだが、何の言及もなしに書くのは不適当
*3:と思って調べてみたら、中央日報のコメント欄にあった。http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=87119&servcode=100%C2%A7code=110§code=&p_no=&comment_gr=article_87119&pn=10&o=r
*4:ちなみに、韓国人の嫌韓ロビー活動家の崔基鎬がこの当時の10〜20代の世代に属する。
*5:世代間ギャップの他にも、農村と都市、資本家+地主と労働者+農民、という格差も当然あった。
*6:こういうと、良い面を取り上げないのが偏っているとか嫌韓バカやネトウヨは主張するのだが、黒人の成功者がいるからと言って、差別がなかったとは言えない、
*7:John Littleは現在Robinsons系列