強制労働下における民族差別に関する記述

以前引用した記事から抜粋。
引用元は、「朝鮮人戦時労働動員」(山田昭次、古庄正、樋口雄一、2005年)。強制連行問題に関する良書です。

八 日本人との差別管理、協和会管理
 日本人から隔離され、労務管理も別であった。朝鮮人労働者統制のための協和会をつくり、朝鮮から来た労働者の労働訓練を実施した。協和会を通じた神社参拝、日本語の学習、教練など皇民化教育が行われた。在日朝鮮人全体の統制組織である協和会の体制に組み込まれていたが、企業内で独自の練成が実施されていたところもある。炭鉱、鉱山、土木、工場などによって労務管理の方法が違っていた。
 なお、一般在住朝鮮人については協和会への加盟と同時に日本人と同じように隣組にも参加させられ、二重の動員体制の下に置かれた。日本に在住していた朝鮮人のすべてに協和会手帳を持たせ逃亡防止、労働動員に役立たせた。会員章を持たないと警察に拘留され、取調べを受けて、朝鮮へ送還されるか、元の労働現場へ再動員された。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20150517/1431880887

九 民族的差別賃金体系で日本人との格差があった
 賃金差別が基本になり、日本人より低賃金状態に置かれた。また、毎月賃金の一部として渡された現金は日本人に比較すると小遣い程度で極端に少なくなっていた。天引き貯金比率、家族送金名目比率が大きかった。家族への送金が送られていないという実態も広く存在した。朝鮮に残された家族は生活苦にあえぐこととなった。帰国時には膨大な貯金などは引き下ろして帰国することは出来なかった。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20150531/1433066678

一三 契約期間の延長と帰国
 朝鮮人労働者の契約期間は二年間であったが、一九四二年頃には深刻な労働力不足で、それまで導入をしてこなかった大工場、軍需工場などに労働動員労働者を充当せざるを得なくなった。こうした状況下に契約延長が労働者に「説得」され、延長が実施された。これに対する反発も強く、紛争が起きた。そこで当局は帰国を阻止するために朝鮮にいる家族を呼び寄せるという「家族呼び寄せ」政策を実施した。労働者としての定着をはかったのである。勿論、これはすべてではなく、一部の人々は当局と交渉を重ねて帰国した人もいる。
 日本の敗戦に伴う帰国については逃亡者を除いて労働動員労働者は組織的に送り返されたが緊急処置として急いで実行された。このために強制的に積み立てられていた預金などが支払われていないことも多かった。労働動員労働者の帰国を連合国軍の占領以前から急ぎ実施したのは北海道における中国人、朝鮮人の争議に見られるように治安対策という側面もあったが、連合国軍に労働動員労働者の実態が知られることを恐れたとも考えられる。また、工場、土木工事の大半は戦時生産、戦時対策のためのもので生産や工事の中止に追い込まれていたから仕事そのものがなくなってもいた。この労働動員者の食糧なども企業は確保しなければならず、企業要求として早期帰国が求められた。炭鉱の場合は戦後になっても動力源として重要なため、朝鮮人労働者を残す動きも米軍政部にはあったが労働動員労働者はすでに大半が帰国していた。また、動員した労働者のすべてを企業と政府が早期帰国させた訳ではない。三菱重工広島造船所、同機械製作所は動員労働者を放置して、労働者は自力で旅費を稼いで帰国しなければならなかった。こうした企業は土木などの業種にもあったと考えられる。
 なお、一般の渡航朝鮮人は放置されたままで、労働動員労働者と一緒に帰国した事例もある(北海道歌志内炭鉱の例)が基本的には四六年一月頃までは自力で帰国しなければならなかった。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20150531/1433066678