労務動員における強制連行に関する記述2

労務動員における強制連行に関する記述1」の続き。
朝鮮人戦時労働動員」(山田昭次、古庄正、樋口雄一、2005年)から9項目目から13項目目までを引用。

(P269-272)
九 民族的差別賃金体系で日本人との格差があった
 賃金差別が基本になり、日本人より低賃金状態に置かれた。また、毎月賃金の一部として渡された現金は日本人に比較すると小遣い程度で極端に少なくなっていた。天引き貯金比率、家族送金名目比率が大きかった。家族への送金が送られていないという実態も広く存在した。朝鮮に残された家族は生活苦にあえぐこととなった。帰国時には膨大な貯金などは引き下ろして帰国することは出来なかった。

一〇 衣食住の実態
 重労働が多いあ職場であるにもかかわらず食糧が不足し、労働管理者などによる物資の横流しがあり、食糧をめぐる紛争が各地で起きた。防寒用の衣類などの配給が少なかった。地下足袋など必需品も不足していた。住宅は集団合宿所で炭鉱など場所、職種によっては外出の自由がなかった。

一一 事故、負傷、病気時の処遇
 労働動員労働者の何人が事故死、あるいは負傷したのか、は明確ではないが日韓会談の記録からは、死亡者一万二六〇三人、負傷者七〇〇〇人という数字が揚がっている。この数字は駐韓米軍政庁厚生部が登録によって調査したものといわれており、調査対象は日本への動員者の約一六パーセントにすぎない。他の人への調査、あるいは少ないと予想されるが三八度線以北からの動員者は含まれていない。また、工場労働に従事していた労働者は空襲などで死亡した人も多い。実態が総合的に日本人の責任で調査されたことはない。また、多くの犠牲を強いたにもかかわらず補償、遺骨の返還など十分ではない。また、怪我、病気、虚弱者などで労働に耐えない人も動員されたため、これらの人については送還している。後遺症のある怪我などの補償もされていない。

一二 逃亡行動と抵抗
 労働動員労働者の逃亡率は極めて高かった。とくに炭鉱など重労働職場や土木工事の現場などでは三割前後が逃亡していたところも多い。手取り賃金が少ないこともあったが、家族に送金が出来たかどうかも心配していた。賃金の高いところや食事の良い所などの情報を得て逃亡した。このため炭鉱・鉱山などでは逃亡防止の囲いを造り、監視を強めたり、労働動員労働者に連帯責任を持たせて防止しようとしていた。しかし、逃亡を止めることは出来ず、一貫して増え続けた。一方、一九四二年から工場に動員された人は小学校を出た人々で構成され、食事など労務管理もそれなりに整備されていたため逃亡比率は低かった。この人々は協和会手帳や渡航証明が入手出来ないので正式な帰国は敗戦を待たなければならなかった。こうした逃亡行動は労働動員に対する忌避行動であるばかりでなく、日本の戦時生産に打撃を与えるものとなっていた。ここでは触れなかったが朝鮮人労働者は食事、差別的言動、労働災害などに対して全国で集団的な抵抗を試みた。また、戦争末期になると朝鮮での労働者が不足したなかで動員を強制したため強い朝鮮人の抵抗があり、朝鮮内でも逃亡、反抗が多くなった。

一三 契約期間の延長と帰国
 朝鮮人労働者の契約期間は二年間であったが、一九四二年頃には深刻な労働力不足で、それまで導入をしてこなかった大工場、軍需工場などに労働動員労働者を充当せざるを得なくなった。こうした状況下に契約延長が労働者に「説得」され、延長が実施された。これに対する反発も強く、紛争が起きた。そこで当局は帰国を阻止するために朝鮮にいる家族を呼び寄せるという「家族呼び寄せ」政策を実施した。労働者としての定着をはかったのである。勿論、これはすべてではなく、一部の人々は当局と交渉を重ねて帰国した人もいる。
 日本の敗戦に伴う帰国については逃亡者を除いて労働動員労働者は組織的に送り返されたが緊急処置として急いで実行された。このために強制的に積み立てられていた預金などが支払われていないことも多かった。労働動員労働者の帰国を連合国軍の占領以前から急ぎ実施したのは北海道における中国人、朝鮮人の争議に見られるように治安対策という側面もあったが、連合国軍に労働動員労働者の実態が知られることを恐れたとも考えられる。また、工場、土木工事の大半は戦時生産、戦時対策のためのもので生産や工事の中止に追い込まれていたから仕事そのものがなくなってもいた。この労働動員者の食糧なども企業は確保しなければならず、企業要求として早期帰国が求められた。炭鉱の場合は戦後になっても動力源として重要なため、朝鮮人労働者を残す動きも米軍政部にはあったが労働動員労働者はすでに大半が帰国していた。また、動員した労働者のすべてを企業と政府が早期帰国させた訳ではない。三菱重工広島造船所、同機械製作所は動員労働者を放置して、労働者は自力で旅費を稼いで帰国しなければならなかった。こうした企業は土木などの業種にもあったと考えられる。
 なお、一般の渡航朝鮮人は放置されたままで、労働動員労働者と一緒に帰国した事例もある(北海道歌志内炭鉱の例)が基本的には四六年一月頃までは自力で帰国しなければならなかった。