南沙諸島/新南群島/スプラトリー諸島の所属に関する件

現在、南沙諸島と呼ばれている島嶼ですが、以前は新南群島と呼ばれていたことがありました。「新南群島」の名称は1921年に農学博士・恒藤規隆が命名したとされています*1
1933年7月、群島の一部9島に対してフランス(仏領インドシナ関連)が領有を宣言し、これに対して、中国(中華民国)と日本(大日本帝国)が抗議しています。特に日本による抗議はすさまじく、新聞ではフランス側の主張を小ばかにしたような論調が掲載され、新聞社自らが係争中の島嶼に探検隊を派遣し示威行動を行い、それを陸海軍大臣、拓務大臣が賞賛すると言った有様でした*2。これに対してフランスは沈黙し、世論を煽ることも無かったため、領土問題の熱狂は1933年8月いっぱいでほぼ収束し忘れ去られます。
再び新南群島が世間の話題に上ってくるのは1939年4月で、きっかけは台湾総督府による新南群島の台湾への編入宣言(台湾総督府令は1939年3月30日付、公表は同年4月18日の官報による)です。フランスに対しては1939年3月31日に駐日大使に通告しています。フランスは4月5日に抗議を行っていますが、それを無視する形で強行しました。

日本が新南群島を放棄するのは敗戦後のサンフランシスコ平和条約によります。

  第二章 領域
   第二条
 (f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

日本政府は新南群島を台湾に属する島嶼として管理していましたから、戦後台湾を返還された中国政府にとっては当然、新南群島も中国領として復帰したと認識しても、それ自体はおかしなこととは言えません。
中国本土から遠く離れた、むしろフィリピンに近いとさえ言える南沙諸島の領有権を中国が主張していることに対して、植民地台湾の一部として南沙諸島を支配していた日本が嘲笑するのは筋にあわない話です。

新聞記事文庫 外交(130-151)
大阪毎日新聞 1933.7.31(昭和8)

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誰が何といっても断然わが領土だ
先占の証拠はまだ幾らもある
外、海両相へ報告、帰阪した横田ラサ島燐鉱支配人談
南支九島嶼問題の渦

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仏国の新南群島先占声明によって日支仏三国間にかもし出された先占権争いはラサ島燐砿株式会社の植民占領の事実証明提起によりいよいよわが政府の決意を促すに至ったものの如くであり近く政府から何らかの方法によって新南群島の先占権が日本にある旨の声明が発せられる模様であるが、二十九日外務省に出頭、既報の第二次報告を提出、さらに海軍省で種々新南群島に関する諮問に答えて三十日朝帰阪したラサ島燐砿会社取締役支配人農学博士横田小人大氏を阪神沿線浜芦屋の自宅に訪えば左のごとく語った
 当局の意向についてはまだ何も決定的なことは打明けられていない、もっとも多少の話はあっても今それをいうことは私どもには出来ない
 貴紙が発表された海軍、外務両省への報告書によって大分腹がきまったらしくはあるがなお証拠になる事実、物件、人物を差出すべく要請されている、元来植民占領は永久に続け一時的にでも該島の事業を休止する意向がなかったのと、またこんな先占争いがあろうとは考えなかったので日本の先占を証明する材料はいくらでもあるがそれが一纏めにしてないのでこれから引続き社内から探し出し近日第三次報告を提出するが最も困るのは人で、当初から島に行っていたものが昭和三年の休止以来大分やめて今残るのは二、三人で十一島全部につき初めからの状態を知ることが出来ないのでその人々の行方を尋ねている、これは東京でも質問を受けたことだが第二回の報告にある如く十一島それぞれに日本名をつけたけれども、その他に外国名があることは当社の発見前に何国人かが居住しておって先占権はそれらの人々にあるのではないかとの疑問があるようだがそれは全く問題にならない、現在当社が事業の本拠にしているラサ島等は元来ラサ・アイランドと英国が命名したものである、しかし英領として何らの手続きがしてなかったのと植民占領の事実がなかったので当社が植民占領を行いさらに南大東島と命名、遂に日本領となった、ところで新南群島だが、これの外国名は何処の国がつけたものでもない、大体あの島の附近は珊瑚礁が多く世界航海図で危険区域とされ、かつて他国の船はあの附近に近寄った事実なく、その名は難破漂流者が勝手に命名、その後わけがわからずにいつか世界地図表に載ったものである、従って新南群島は事業を実際にやっていた当社のものであり、自然大日本帝国領となることは当然のことである、しかもこの新南群島で当社が仕事をしていたことは日本人のみならずフィリピンにも証明する人がいくらもあるであろう、当社が事業継続中一度食料品、什器に困りフィリピンに船をやったところ大体が外国領に立寄る意思がなく船籍証明を持たなかったことから何も売ってくれず、その結果フィリピンを大いに騒がした、その時新南群島を日本人が植民占領していることが十分同地の人々に知られた事実もあるから……支那が仏国で今度発見する前から新南群島で仕事をしたというがそれは当社で仕事をはじめて以来年に一度貝ボタンの材料を採取に来ていた、これは当方でも認めるが、ちょっと来て貝を拾って帰っただけで仕事をしたなどということは出来ない、従って新南群島に対して支那は仏国よりは関係の深いものはあるが、これをもって日本の植民占領の事実と争うことは出来ない

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データ作成:2014.8 神戸大学附属図書館

新聞記事文庫 外交(130-166)
大阪朝日新聞 1933.8.6(昭和8)

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新南群島問題で外務省非難の声

『発見当時宣言を怠って仏国に先手を打たれた』

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支那海九島嶼の先占問題に関しわが外務当局は目下これが対策を協議しつつあるが、根本方針としては(一)右九島嶼のうち六島においてフランスの先占通告以前わがラサ島燐砿株式会社が私権を行使しつつあるとともに右島嶼に関して公権行使の事実が認められること(一)右島嶼はわが国に最も隣接し航海、軍事上重大関係あること即ち同地方の通航の船舶は日本船が最も多数であり、かつ右島嶼のうちには飛行機の発着場としての有利な地面を有することなどわが国に対し極めて密接な関係を有するなどを理由として帝国政府はフランスの先占通告に対し何らかフランス政府宛て通告する方針を決定している、しかしこの外務省の態度に関しては帝国政府としては右九島嶼においてわが国として種々の権利を行使したあらゆる事実に本づきフランス政府の先占に対し抗議をなすべきで、外務省案の如き不徹底な態度をもって折衝すべき事柄でない(一)さらにわが外務省は何故に今日まで右島嶼に対して先占の宣言をなさざりしか、右島嶼発見当時先占問題起りしにもかかわらずこれを放置して来たのは外務省としては重大な責任ではないか、しかも右島嶼は殆どわが領土に等しき状態なりしにかかわらず今日にいたって突如フランス政府の先占通告に驚き俄にこれが対策に取りかかる如きは重ね重ねの外務省の失態であるとの強硬意見が外部ならびに省内においても擡頭し生温い処置に対し各方面で外務当局を鞭撻している

仏国の『反証』は恐らく島違い 外務当局は一笑に附す 中村博士も資料提出

支那十一諸島先占問題を繞ってフランス政府当局はいよいよ反証を主張し来り問題はますます紛糾して来たが、既報去る昭和四年五月九日皆既蝕研究のため問題のイツアバ島へ渡った東北帝大物理学教授中村左衛門太郎博士はイツアバ島における当時の研究を発表したる昭和四年版東北帝大学術報告書第十九巻第三号ならびに当時の探検研究を具さにした著書および博士一行撮影の写真数葉を五日午後重光外務次官の手許まで送って来た、当局にはこれで日本先占を立証する当局による調査資料ならびに一般参考資料が殆ど整備され遅くも来週中にフランス国政府に対し抗議通告の手続をとることとなった、なお一九三〇年一月日本領事が仏領印度支那の総督に対しグアノ燐肥原砿採取の認可を要求したとの点につき仏国政府は反証を主張しているに対し外務当局は一笑に付し恐らく島違い、すなわちパラセル島附近の小島と混同し誤り主張しているものとしている(写真は中村博士)
[写真あり 省略]

米艦に測量を許した事実 梶本佳吉氏

当時新南群島で活動したラサ島燐鉱会社員和歌山県海草郡山口村平岡梶本佳吉氏の話
[写真あり 省略]
私が新南群島に行ったのは大正十四年三月で双子島に数年いました大正十五年の四月にはアメリカの軍艦が突然六島中の長島の東海岸にやってきたのでさては我々の島を侵しに来たのかと皆のものが数連発の拳銃に弾をこめて決意のほぞを固めたが医者の通訳でやっと測量をさせてくれと頼みに来たものとわかり測量だけを許してやったことがあります、その米艦は長島から双子島の測量に向い恰度社員や坑夫のいないのを幸いに蓄音器や器物などをめちゃめちゃに毀して立ち去ったことを発見し会社を経て厳重抗議の手続きを取ったぐらいで古くから新南群島が日本人の手にあったことは儼然たる事実で全く議論の余地がない、私どもはあくまで一証人として当局の指図によっては今一度新南群島に出かけてもよいという考えをもっています(和歌山)

国民政府でも新南群島調査

【連合マニラ五日発】南支那海の新南群島に対するフランス政府の先占声明に対し早くも日本よりの異議の第一声があげられたが同問題を重視する南京国民政府でも食指を動かし同群島に関する調査方をマニラ駐在総領事絡光林氏に命令して来た

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データ作成:2014.8 神戸大学附属図書館

新聞記事文庫 土地(8-106)
大阪毎日新聞 1933.9.7(昭和8)

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成功を祝して各大臣の讚辞

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問題解決の上に極めて有効 海軍大臣 大角貌岑生氏

フランスが先占を宣言して突如国際問題を惹起した新南群島に対し大阪毎日、東京日日両新聞社が率先探検隊を派遣して調査に従事中のところ五日無事任務を終えて台湾に帰還したとの報道に接した、新南群島の問題はわが国としても重大な問題であってその有利な解決の一日も速かならんことを切望している、この際本探検隊が実地踏査によりその実情を明らかにし正しい認識を国民に与えたということは今後問題解決の上にも極めて有効な結果を齎らすべくかかる事業こそ新聞社本来の尊き事業を完うするゆえんであって両社が多大の経費を借まず今回の企図をされたことに対し深甚の敬意を表するとともに探検隊が僅か四十七トンの小発動機船をもってよく千八百マイルの海上を航してその任務を達成したる苦心と努力に対しては真に讚辞を呈するに吝かでない次第である

現代の"八幡船" 労苦感謝の外なし 拓務大臣 永井柳太郎氏

満蒙が日本の生命線であるとすれば南支南洋は日本国民の生活線ということが出来る、南洋に対するわが国の投資は一億数千万円に達している、南洋各地に活躍した同胞は四万に垂んたるものがある、貿易は昨年度輸出入合計五億七千五百万円におよんでいる、将来日本国民の新生活を建設する富源と機会とは無尽蔵である、殊に南支南洋はわれらの祖先が数世紀以前から徒手空拳で運命を開拓した記念すべき天地で歴史的にもまた経済的にももっとも密接な関係があるからこの方面の日本国民の足跡はいたるところに印せられさきに仏国が先占を宣言した新南群島の如きも夙に日本人がその富源の開発に従事した歴然たる痕跡があるので日本政府が仏国の先占宣言に対して抗議を提出したのも決して偶然ではない、大阪毎日、東京日日新聞社が夙に南支南洋の重要性に着眼して今回新南群島の先占に関する国際問題が発生するや逸早く特派員を派遣し小船をもってよく大洋探検の実をあげその全裸の姿を国民に知らしめ南支南洋のわが生命線に対する国民の注意を喚起することにつとめられたことは往時南支の海上に勇名を馳せた八幡船にも彷彿して私も大いにその計画を多としその労苦に対し感謝を禁じ得ないところである

海国日本の意気を示す 陸軍大臣 荒木貞夫

今回大阪毎日、東京日日新聞新南群島の探検を企て小船をもってよく荒海の怒濤を征服しついにその目的を達したのは海国日本の意気を示したものとして欣快に思う次第である

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データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館

新聞記事文庫 土地(8-110)
東京日日新聞 1933.9.20(昭和8)

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日本の強腰に驚いた仏国
穏かに話をつける腹
新南群島問題
パリ本社特派員 永戸俊雄

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 仏国政府の新南群島先占宣言に対し厳重談判せよという日本政府の訓令がパリの大使館へ来たのは丁度夏休みで仏国外務省は大臣も次官もお留守、バルジュトンという局長級の男が留守番をしていた、わが政府の訓令は大変都合の悪い時にパリへ到着したもので、わが沢田代理大使はその留守居役バルジュトン氏に直に訓令を持出したものである、訓令の内容は簡単にいうと「仏国政府のやり口は穏当でないから考え直せ」ということだが何しろ仏政府首脳がパリへ帰って来てからでなければ回答は期待出来ないという始末であった、九月一日は夏休みあけの最初の閣議だったが日仏紛争問題は議題にならなかったようだ、しかし政府の首脳部がパリへ帰って来たのだから遠からず日本に回答しようが今のところ仏国は問題の「研究中」であって、何らの態度も決してはいない、さて仏国がどんな態度をとるか、実は日本の抗議を受取ったケー・ドルセーはとにかく驚いたのである仏国外務省では日本が新南群島の先占権という根本問題について抗議して来るだろうとは全く予期していなかったようだ、いい換ると仏国の先占宣言によって根本問題は解決し産業的利用問題だけが残っていると考えていたもののようだ、バルジュトン氏は
 ラサ島燐砿株式会社の事業継続に対しては許可して差支えないと思う
というようなことをいったが沢田氏は
 日本は根本問題について仏国の再考を促しているのである、日本政府はこの問題に対して重大な決心をしており輿論もまた仏騰しているからそのつもりで考えて貰いたい
という意味を強調して、つまり仏国では、日本がそういう強い真剣な調子で抗議して来るとは思っていなかったらしい、だから仏国はいくらか面喰らいの形で消息通の話を聞いて見ると仏国は日本のいい分を一蹴するというような態度には出まいということだ、その理由は問題の島は軍事的にも産業的にも仏国にとってさほど重大なものでないのだからそんなことで日本と喧嘩するのは愚だというのである、しかしだからといって欧洲大陸に覇を唱える仏国が日本の抗議を食って直に問題の島から三色旗をとり去るようなことをしては、第一仏国海軍の顔が丸潰れになるし、従って日本と喧嘩もせず仏国として体面が保てるような解決のフォーミュラを見つけるということになるのではないか、そうなると奇跡でもない限り話しは当然長びくものと思わねばならぬ、しかし今度の問題について仏国政府とパリの言論機関との関係を見るのに政府は全く沈黙を守り日本を相手にして仏国の輿論を動員するという態度は見えない、これは仏国政府がことを荒立てずに穏かに日本と話をつけるつもりだからだろうと想像出来る(九月一日記)

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データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館

新聞記事文庫 外交(147-198)
大阪朝日新聞 1939.4.18(昭和14)

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新南群島の管轄決定きょう公告

我国防線は千浬延長
権益確保に軍艦派遣

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帝国政府では古くから無主の珊瑚礁島嶼として知られていた南支那海の新南群島を三月三十日付の台湾総督府令により「高雄市の管轄に属せしめ」たがさらにこれを十八日付官報により公告し内外に闡明することとなった、しかして帝国政府では三月三十日に台湾総督府令を公布するとともに昭和八年に七島嶼ならびにその他島嶼を領土に編入することを宣言したフランスをはじめ関係諸国にこれを通告する必要を認め去月三十一日にアンリー駐日仏大使を外務省に招致してこの旨を通告しさらに同日英米両国に対してもワシントンおよびロンドンにおいて同様の通告をなした、これに関しフランス政府はアンリー駐日大使をして五日帝国政府に抗議的申入れをなさしめたが、帝国政府においてはすでに国際法上の研究も十分尽されているのでフランスの申入れを拒絶し帝国政府の見解を再び詳細に通告したが今後かりに他の諸国から同様の申入れがあっても同一方針によって進む意向である、なお今回帝国政府がかかる行為に出たのは紛争発生以後沈黙していたフランスが支那事変起るにおよび同方面に積極的行動を開始し、さきには西沙島の領有を主張し新南群島に対しても軍艦を派遣して邦人の活動状況を調査、或は商船を派して人および材料を上陸せしめるなど同島の占領を実効的ならしめんとするの気配を示したのでわが方でも軍艦を派遣し邦人の保護に当るとともに行政所管の決定を発表して帝国権益の確保に万全の措置を講じたのである、この新南群島は北緯七度乃至十二度、東経百十七度乃至百八十度の区域にあって台湾より七百浬、島嶼の長さ三百浬で、これによりわが国の国防線が千浬延長される結果ともなり、わが方に取っては経済上ならびに軍事上重大意義を有するものである=写真は新南洋□□□の全景

仏の"先占"は無効

さきにわが国が占有し今回その管轄を決定した新南群島に関する法的根拠については既に十分に研究しつくされているのでたとい第三国から抗議的申入れがあってもこれを論駁する用意をもっているが帝国政府の法的見解は大体次の二点に要約される
(一)無主の土地の管轄決定についての条件は第一に当該国が管轄決定の意思をもっていてこれを表明すること、第二に当該国がこの新領土に対し実効的占有の条件をもっていることである
(二)しかして管轄決定の意思は今回台湾総督府令をもって公告したので明かであり実効的占有の条件は大正七年ラサ島燐鉱会社が事業経営に着手した時にはじまっている
しかしてフランス政府との関係についてみれば左の通りである
一、新南群島が国際的に問題とされるのは昭和八年七月二十五日フランスがアストロラ、アラート両通報艦がこれを発見したという理由で同島に対する先占宣言をしたのによる
一、しかるにフランス政府が先占宣言をしたこれらの諸島は無主の地として永年一般に知られていたのを大正七年以来わが方のラサ島燐鉱会社が開発に従事し永久的設備を施している、しかして帝国政府ではラサ島燐鉱会社の右事業に対し最初からこれを承認しかつ各般の援助を与えている、すなわち実効的先占はまずわが方にありといわねばならぬ
一、フランスはこの実情を無視しかつわが方と何らの相談をすることなく一方的先占宣言をしたもちろん帝国政府はこれを承認せずフランスの宣言の直後すなわち昭和八年八月二十一日時の沢田駐仏代理大使をしてフランス外務省に抗議的書翰を提出せしめわが方の見解を明かにしている
一、しかのみならず当時のフランスの先占宣言は経緯度をもって島嶼の位置を指摘していない、今回の我管轄決定の通告は実効的先占の条件の上に詳細に島嶼の地位範囲を指定した完全なる領土占有の意思表示をしたものでいずれの点からみてもわが方の主張が正当である、なおフィリッピン諸島のうちに属するとの所論も見うけられたがこれについては一八九八年の米西講和条約第三条をみれば比島領域中本島嶼に最も近接せる部分は北緯七度四十分、東経百十六度より北緯十度、東経百八十度の一線であるゆえこの度のわが方の範囲とは牴触しない
[図表あり 省略]
地位指定範囲
 新南群島は南支那海中台湾の南端から南々西へ七五〇浬で仏領印度支那カムラン湾から東方三二〇浬、香港から八四〇浬の地点にある二十数個の島嶼よりなる群島でそのうちの主なる島は長島、北二子島、南二子島、三角島、中小島、北小島、南小島、西青島、亀の甲島、飛烏島、西鳥島、丸島などの南洋諸島でその範囲を経緯をもって示すと左の通りである
[図表あり 省略]
 新南群島は上表の地点を結ぶ区域内の全島嶼を含む
また同群島の帰属関係が国際間に問題視されるのはフランスの先占宣言によるものであるがフランスが昭和八年七月二十五日付官報で仏領として宣言した島嶼は左の通りである
西鳥島(スブラ鳥島およびその附近の島嶼)△丸島(アムボイナ島およびその附近の島嶼)△長島(イツアバ島およびその附近の島嶼)△二子島(トウジル島およびその附近の島嶼)△中小島(ロアイ・タ島およびその附近の島嶼)△三角島(チ・ツ島およびその附近の島嶼)
新南島群島とは
新南群島は大小二十四個の島礁からなっており、その主なるものはノース・デンジャー礁、デ・ツ礁、ロアイ・タ礁、チザート礁で、このうちでも経済的価値のあるのは俗に長島というイツアバ島である、これは新南群島最大の島で、大正十三年から十五年にかけて南洋庁のラサ島燐鉱株式会社で燐鉱を採取した、陸上には事務所、宿舎、桟橋など施設し約二百人からの従業員が採鉱に従事していた
 くだって昭和の初めには高雄市を根拠とする鮪漁業および採貝漁業の中心漁場として附近一帯は邦人の活躍するところとなった、そしてこの長島(イツアバ島)およびノース・デンジャー(俗に危険島)で給水していた、つまり当時から高雄の前進根拠地として漁業関係では大いに発展したところで、高雄の漁民たちはいまさら高雄市編入などと宣言するのさえ不思議におもっているほどである
その後昭和十年高雄市在住の平田末治氏が提唱して開洋興業会社を設立、漁業および燐鉱採掘を目的としてこの長島を根拠地とし社員をここにおき業務にあたり現在にいたっている
長島
長島(イソアバ島)は東西一、三〇〇メートル、南北三〇〇メートルの隋円形をなしており水面上五メートルないし六メートルの島である、海岸には二十五メートルないし五十メートル幅の白砂があって、これが島をとりまいており、島内はわずかに低い盆地となっている、黒土に掩われ、ところどころに燐鉱採掘の痕跡があるが、概して平坦である
 島の外側は灌木が繁茂し、内部には硬軟数種の樹木がある西方の一部の平地には椰子樹が南国情緒をそえており、この椰子林附近は整地されていて現在開洋興業会社がある
二子島
ノース・デンジャー礁、新南群島の最北端にある環礁で俗に二子島という、すなわち北東堆と南西堆の二島からなっており、灌木が全島を掩い椰子の木が散見できる
 チ・ツ礁は広い外礁でかこまれ、水面上六メートルないし七メートルの島で灌木で掩われており、外礁は殆ど一海里も遠いところにあり外礁から内側には小舟もはいれぬ

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データ作成:2014.11 神戸大学附属図書館

新聞記事文庫 外交(147-200)
東京朝日新聞 1939.4.19(昭和14)

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国際法から見た新南群島問題
帝国は支配権を有す
仏の先占通告は条件を欠く
法学博士 米田実

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[写真(米田実博士)あり 省略]
 大正十年日本人恒藤農学博士に依って「新南群島」と命名せられた南支那島嶼の九箇は図らずも十二年後(昭和八年七月)フランス政府により同国の新領土となす旨宣言せられ、我国の抗議を見たのである、爾来五年有半余、未解決であったが、今亦再燃の運に会しえいる
 そもそも同紛争は、如何なる性質のものであるか
 と言うと、元来、島嶼と言わず、大陸の一部と言わず、無主の土地を一国の領有に帰する方法が先占にあるは無論である、だが先占となるには条件がある、第一、その国家が先占の意思を有し且つ実行することが必要である、即ち一私人若くは私立会社が如何に行い、如何に思っても、それだけでは駄目である、一八八〇年国際法学会の決議が「先占は政府の名を以てす可きもの」としたのは、此意味からだ、ところでフランスは軍艦をして之を行わしめ、政府から先占の宣言をしたのだから、此点だけならば何の不審もないわけである、しかし第二として重要な条件がある、外でもない、占有を有効にし真の先占たらしむるには、実力の樹立、ホール、又はオッペンハイムなども言っている支配権の確立が欠く可からざるところである、この点になると、彼のフランス軍艦が一九三三年巡航し来りて、航路標識などを設置したなどでは、到底実力の樹立とも、支配権の確立ともならぬのである
 歴史を顧みると、先占の考え方、扱い方もいろいろ変化している、四五百年前までは、世界に空地も多く、強国間の競争、殊に植民地争いも余裕が多かったので、単に「発見」だけでも権利を生んだと見られた、十八世紀頃から占有のエフィシェンシー(効力)が学者により、政治家によりて要求せられて来たのである、然らば所謂先占に必要なる実力支配権の樹立とは何であるかというと、諸学者は種々の事柄を挙げている、軍隊の派遣、警察力の存在、砲台等設備、行政組織編成、土地資源開発、農園、商業設備などが数えられているのである、といっても、之はすべて先占領域の地理的、政治的地位、事情によって決定すべきものだ、たとえば北南両極地帯の如き、軍隊も、砲台も、問題たり得ようはないのである、一九三三年国際司法裁判所が極北「東グリンランド」事件(ノルウェイ、デンマルク間の紛争)に於ける先占について、簡単なる実力を以て十分とし、デンマルクの勝訴としたなど、適例だ、ホール、ジェーツ諸学者が、一律に軍備設備を必要とするわけではなく、土地開発事業、農園、商業設備だけにても足るべしと説けるも、同一精神である
 しかも今回のフランスの先占主張の九島になると、現地の事情上実力樹立は決して簡単に成り得るものではないのである、第一、同島は曾つて久しく日本人燐鉱会社が根拠を造りたる地であり、今も支那人住民があり、決して無人島ではない、第二、同島は香港から約八百マイル、我が台湾から九百マイル、米領フィリッピンから二百マイル、然も国際関係紛争の西太平洋の難点に位するのである(殊にワシントン条約廃棄の結果、同条約太平洋防備制限止み、大国連、海島を重視する時代においては、益重大である)かかる地理的、政治的状態に照すと一九三三年仏の所謂「九島先占」は先占の実際性を欠いたものであり、我国が断乎抗争、今日に及べるのは、当然と言わねばならない
 予は之を観て、実はフランスが八年前(一九三一年一月二十八日)東太平洋無人島リッパートン島先占事件に僥倖にも勝ったので、有頂天になり過ぎ、勢に乗じてこの過ちをまで犯したのを憐れむものである、同島のとき、一八五八年十一月仏船の「主権のしるしを残さぬ程度」の行動が、仲裁者(エヌマエル三世陛下)に支持せられ、メキシコに勝ったのであった、この仲裁判決は学者が大に不当としているところである、殊に日本はメキシコではない、西太平洋の地理的政治的状態は、又無事な東太平洋とは違うのである、就中諸学者の先占論も既述の通りではないか
 人、或はフランスの通告そのものを重視するものがある、だが先占には通告が必要条件でない、況んや通告によりて先占上実権不樹立の欠陥を救作することなどは出来ぬのである
 依って予は結論として、下の如くいい度い
新南群島国際法上決してフランス領ではない、だから我日本は宜しく此見地に基いて実際的に同島に処し得可きである」
と、若それ同島に於ける我日本人居住及び事業経営の歴史等より生ずる或種の主張は、固よりあり得る、だが之には触れずとも、予は以上の言をなし得ることを感ずるのである

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データ作成:2014.11 神戸大学附属図書館

その他

日本政府は基本的に1921年先占説を取っていますが、この記事はその説に疑問を抱かせる内容です。記事内容は初上陸自体が1928年であったことを示唆しています。

新聞記事文庫 土地(7-083)
万朝報 1928.4.27(昭和3)

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比島の西の無人島に無尽蔵の燐鉱発見

川崎汽船の東裕丸がうんと採取して昨未明横浜に入港
新南群島と命名す

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琉球ラサ島のラサ燐鉱会社は最近ヒリッピンの西、東経百十四度二十分、北緯十一度二十分の八海上に周囲一哩の珊瑚礁よりなる無人島を発見し今回始めて川崎汽船会社の東裕丸(一二三六トン)を同島に立ち寄らせたところ同島には島糞よりなる燐鉱が無尽蔵にあり、三人の社員と人夫二十名は千五百五十噸を発掘採取し同船に積込んで二十六日未明横浜に入港した、同船の高級船員の話に依れば『同島は軍事上枢要な地点にあり、最近英仏軍艦がこれを感づいたらしく内内測量を開始した形跡がある、我々は新南群島と命名したが将来無電や海底電線の中継、飛行機の着陸上には又とない要地となるであろう』

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データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館

新南群島と西沙群島を混同しているかのような記事で、1934年にフランス側と中国側で紛争が生じていることを示している内容です。1934年当時の日本において、新南群島と西沙群島が明確に区別されていなかったのか、この記事の誤認かは不明。ちなみに中国政府は当時、南沙諸島は西沙群島の一部であると主張し、1933年のフランスによる領有宣言に抗議しています。

新聞記事文庫 土地(8-142)
大阪時事新報 1934.3.11(昭和9)

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新南群島をフランス狙う

気象台設置を主張

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【南京連合十日発】当地支那新聞は最近フランスの新聞雑誌が安南地方に襲来する颶風を予知するために、例の先占問題で有名な新南群島(西沙群島)に自国の気象台を設置する必要があるので同島をフランス領に移すべしと主張していると報じているが、これに関し中国日報は「西沙群島の危機」と題する左の如き社説を掲げている
 フランスの目的は太平洋の危局に先立って支那近海に有力なる軍事的地歩を獲得し、来るべき支那分割に際し大なる発言権を収めんとするものである、依て支那はこの際速に西沙群島に気象台を設立し以てフランス側の口実を封じ、西南九礁島の轍をふむようなことがないよう今から充分用意をなす必要がある

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データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館

*1:但し、1928年4月27日の万朝報では、「ラサ燐鉱会社は最近ヒリッピンの西、東経百十四度二十分、北緯十一度二十分の八海上に周囲一哩の珊瑚礁よりなる無人島を発見し」とあり、1921年発見説との整合性に違和感があり、かつ同紙には「今回始めて川崎汽船会社の東裕丸(一二三六トン)を同島に立ち寄らせた」とあるように上陸自体は1928年が最初と思わせる記載もあり、1921年説に疑問も残ります。

*2:大阪毎日新聞 1933.9.7(昭和8)「成功を祝して各大臣の讚辞」