燕子磯における捕虜・難民虐殺事件(12月14日・12月14日以降の12月20日頃までの間)

事件日時

1937年12月14日、及び14日以降の12月20日頃までの間の2度

実施部隊

不明。
第16師団(中島今朝吾中将)又は山田支隊(山田栴二(やまだ せんじ)少将)である可能性が高い。

犠牲者数

中国人捕虜 約5万人
ただし、犠牲者5万人というのは幕府山一帯で実行された捕虜虐殺の総数と思われ、おそらく12月16日17日の幕府山事件・大湾子事件の犠牲者を含む。
燕子磯に限定すると犠牲者数は2万人程度と推定する。また、敗残兵・捕虜以外に一般市民の難民も相当数含まれると推定。
犠牲者10万人説も(汪良の伝聞)。

12月14日〜20日頃に起きた2回目の虐殺では、捕虜・敗残兵が主で犠牲者2万人以上。
12月14日の1回目の虐殺は、多数であること以外に犠牲者数を明示できる資料に乏しい。

事件概要

1937年12月13日の南京陥落直前の12日夜、戦線崩壊の混乱から多くの敗残兵、難民が北側城門(把江門)から城外へ逃れ、下関地区を経由し長江南岸沿いに下流へ向かって移動した。途中で下関の難民や紫禁山の敗残兵なども加わって数万人規模となっている。上流に向かって下流に向かった理由は、上流側は既に日本軍によって封鎖されていたこと、下流側に少し行ったところ(燕子磯〜烏龍山)から長江支流を渡って八卦洲へ逃げれると考えたことが挙げられる。
これら数万の難民・敗残兵の群衆が全て幕府山北側に到達したわけではなく、後尾の群衆は紫禁山の陣地を突破してきた第16師団麾下の部隊の突入攻撃を受け、民間人もろ共に宝塔橋・魚雷営付近で虐殺されている。第16師団突入前に魚雷営を通過し幕府山地区に入った群衆は12月13日での虐殺の犠牲にはならなかったが、逆に最も先頭を進んだ群衆約1.5万人(多くは敗残兵)は翌14日、烏龍山付近で山田支隊の捕虜となっている。
西は魚雷営、東は烏龍山で前後を封鎖された数万の難民・敗残兵は燕子磯を中心に集まりある者は必死に対岸の八卦洲に逃れようとしたが、12月14日、日本軍が燕子磯に到達し多くは捕虜とされ、逃げようとした敗残兵・難民が機関銃で多数撃ち殺された(1回目の虐殺)。
烏龍山での捕虜を含め、この付近で捕虜となった者らは4〜5ヶ村に分けて収容され総数は、5〜7万人と推定される*1。この4〜5ヶ村にはおそらく燕子磯も含まれる。
燕子磯付近の幕府山に隠れている敗残兵の掃討を日本軍が行なっていた時期に、燕子磯で捕虜2万人以上が虐殺されている*2

考察

燕子磯の虐殺については不明な点が多く、またいくつかの証言は幕府山付近全域の虐殺の一つとして認識し、大湾子事件をも含めて幕府山事件とみなしているかのような言説も見受けられる。否定論者の中には燕子磯の事件の存在を否定し、大湾子事件(これを幕府山事件と呼んでいるが)と同じ事件とみなす主張*3もあるが、大湾子事件と燕子磯の事件は別個の虐殺事件と考えるべきだろう。

参考

「近代戦史の謎」1967年10月5日、人物往来社、洞富雄
近代戦史の謎 (1967年)
南京大虐殺の現場へ」1988年12月20日1刷、朝日新聞社、編者 洞富雄・藤原彰本田勝一
南京大虐殺の現場へ
「南京への道」1991年3月20日2刷、朝日新聞社本田勝一
南京への道 (朝日文庫)

*1:「南京慈善団体及ビ人民魯甦ノ報告ニ依ル敵人大虐殺」の記述「敵軍入城後、まさに退却せんとする国軍及び難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山付近の四、五箇村に閉じ込め、飲食を断絶す。」とあり、また栗原氏の記録では大湾子で殺された13500人を含めて全体で70000人が犠牲になったとの記述がある。魯甦が直接見たのは、燕子磯事件ではなく大湾子事件ではないかと思われ、57418人という数字は、直接見ていない虐殺についての伝聞によるものであろう。魯甦証言は幕府山一帯で起きた個々の虐殺事件を総体とした評価と言えよう。

*2:郭国強の証言 http://japanese.china.org.cn/jp/archive/nanjing/txt/2005-04/20/content_2169654.htm

*3:板倉由明氏の主張だが、洞富雄氏に反論されており、板倉氏の主張の信憑性は極めて低い