1943年から1945年にかけてビルマ方面に送られた慰安婦の状況

1943年

昭和18年1943年のビルマ。太平洋戦争開戦当初の物価を100とした場合の物価指数は、1943年3月時点で705、6月時点で900、9月時点で1253、12月時点で1718でした*1
当時、南方開発金庫が臨時軍事費特別会計から軍票で借り入れた資金を元に、ビルマ方面ではルピー軍票を発行していました。これは正式には南方開発金庫が発行している通貨ですので軍票ではありませんが、一般的には軍票と呼ばれます。また、南発券とも呼ばれます。これがビルマの日本占領地域で流通していた通貨です。
公式レートで1円=1ルピーですが、内地との実勢レートは1943年3月時点で1円=7ルピーでした。

公式レートと実勢レートの差はまず日本の海上輸送力の低下から生じました。ガダルカナル島の攻防からソロモン諸島の戦いで日本軍は多数の輸送船を軍事用に徴用し、民間物資の輸送力が低下、その結果、ビルマで生産しない工業製品や特産品以外の原料がビルマに入ってこなくなります。
最初は特定の物資不足が市場価格の上昇を呼び、その価格上昇が他の品目にも波及しインフレが進行しました。

ビルマに駐留する日本軍を養う費用は兵士の給料や現地物資購入費用ですが、これらは臨時軍事費特別会計から南方開発金庫に軍票で払い込まれ、南方開発金庫からはルピー軍票として現地部隊経理部に渡されます。経理部は現地での徴用・購入や兵士への給料にルピー軍票を用います。
この駐留日本軍にとってもインフレは問題で、まず現地での必要物資買い付けにかかる費用が増加します。占領軍の圧力で買い叩くことも可能ですがやり過ぎれば、単に現地業者の反感を買うだけでなく、業者が物資を英印軍や中国軍、抗日ゲリラなどの敵方に売ってしまうようになります。
その結果、流通している物資は増えないのに、流通するルピー軍票は増えていきインフレが加速、これに対応するために日本軍はルピー軍票を増発し悪循環に陥っていきます。
1943年3月はそのハイパーインフレの入り口に入った頃です。

植民地である朝鮮・台湾から騙されて連れてこられた慰安婦ビルマ各所で慰安所に入れられ日本軍兵士相手の売春を強要されます。この他、中国の日本軍占領地から連れてこられたと思しき中国人慰安婦や日本の妓楼から送られた日本人慰安婦もいました。

慰安所のシステム

部隊や時期、駐屯地、階級によって一様ではありませんが、概ね1回30〜50分、2円程度の料金で営業しており、営業形態に関して駐屯地司令部に細かく規定されていました。慰安所の経営者は売上高を司令部に報告する義務があり、慰安婦の性病管理に意を払う必要がありましたが、一方で軍から物資の支給を受けることもできました。
ここで「1〜3円」と書きましたが、正式にはビルマで流通させていたルピー軍票ですから「1〜3ルピー」になります(公式レートで1円=1ルピー、であったことから、ルピー軍票であっても、兵士や在ビルマ邦人は「円」と呼んでいました。)*2

売上の半分が慰安婦の取り分とされてはいましたが、食費・衣服代等経費はその取り分から払うため手元に多くは残りませんでした。
仮に、1日8人の客を取った場合、売上は16ルピー、そのうち取り分は8ルピーとなり月に25日働くとすれば、月200ルピーとなります。1円=1ルピーの公式レートからすれば、結構な金額に見えますが、1943年3月時点で実勢レートが1円=7ルピーですので実質上は30円程度の価値となります。昭和4年1929年時点の東京での警察官夫妻の生活費が月に63円*3であることを考えると、この額は少ない方と言えます。さらに1943年6月になると実勢レートは1円=9ルピーと悪化し、実質上は22円程度に悪化します。
昭和初期の日本の売春婦の収入は、一等芸妓:月55円、上等娼妓:月37円、下等芸妓:月19円*4程度とされますから、1943年3月〜6月頃のビルマにいた慰安婦は、その後悪化していく状況から比べれば、下等芸妓並みとは言え、まだマシな待遇だったと言えます。

これが1943年9月になると実勢レートは1円=12ルピーになり実質、月17円程度、12月では実勢レートが1円=17ルピーとなって実質、月12円とさらに悪化します。送金などを行えれば1ルピー=1円で換金でき、事実上の為替差益を得ることができましたが、ほとんどの慰安婦には激しいインフレの中でのやりくりが精一杯で送金などの余裕はありませんでした。
ほとんど毎日8時間働いても実質上の収入は月12円ではやっていけません。日に日にインフレが進行している状況では貯金しようという気にもならないのが普通です。
経営者の許可を得て、街に買い物に出かけても買える値段ではなくなりつつあり、そもそも品物自体が減り始めていました。

1944年

昭和19年1944年、物価指数は、3月時点で2629、6月時点で3635、9月時点で5765、12月時点で8707でした*5
1944年3月にはインパール作戦が開始されます。この作戦のために多くの物資、食料がビルマで徴発されますが、対価としてばら撒かれたルピー軍票はインフレを加速させる要因のひとつとなり、作戦が失敗して第15軍が崩壊し始めた7月ごろには開戦時の36倍以上にまでインフレが進行しています。
物資を持つ者は隠匿するようになり、市場から品物が消え、敗色の濃い日本軍には物資調達がさらに困難になっていきます。

1日8時間25日勤務で月200ルピーを稼ぐ慰安婦の実質収入は、1944年3月には月8円、6月には月6円、9月は月3円、12月には月2円へとほとんど無償での性奴隷となり果てたのです。ここまで対価となる通貨の価値が崩壊すると、慰安所のシステム自体が体をなさなくなります。
まず、20人ほどの慰安婦を抱える楼主自身の収入は慰安婦1人200ルピー×20人=月4000ルピーですから、実質収入で1944年3月には月152円、6月は月110円、9月は月69円、12月には月46円と激減しています。これでは自身の食い扶持がやっとで慰安婦を養うことはできません。その結果、特に前線に近い地域では慰安婦らと兵士の一体感が強くなります。
軍にはインフレに関係ない補給物資のルートがあるため*6貨幣経済が麻痺した状況で慰安所を運営するためには、現物物資の支給するしかありません。こうして兵士の食事や看護などを手伝うようになった慰安婦は、連帯感を強く抱くようになり、拉孟・騰越で見られたような慰安婦まで含めた部隊の玉砕のような事態が生じたわけです。
特に日本人慰安婦は兵士の同郷の意識が強く最後まで運命を共にしました。朝鮮人慰安婦も強く連帯感を抱いていたようですが、日本人慰安婦に勧められ投降しています。
これらは美談として語られることもありますが、ストックホルム症候群に近い精神状態だったとも言えるでしょう。

1945年

昭和20年1945年、物価指数は、3月時点で12700、6月時点で30629、8月時点で185648でした*7
インパール作戦に惨敗し、北部ビルマでの戦いにも敗れた日本軍は弱体化著しく、北から迫る中米軍、西から迫る英印軍を抑えることができませんでした。
1945年4月、ビルマ方面軍司令部は兵士や在留邦人を置き去りにして逃亡し、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍や残された部隊は東に向かって命からがら撤退することになります。ラングーンの高級将校向けの料亭にいた日本人慰安婦・芸者らはいち早く逃げることが出来ましたが、多くの慰安婦らは日本兵と共に徒歩で撤退しています。既に慰安所のシステムは崩壊し、慰安婦らも自ら山中で食べ物を捜しながら撤退行を続け少なからず犠牲者を出しています。

1日8時間25日勤務で月200ルピーを稼ぐ慰安婦など既に存在しない状況でしたが、仮にいたとすると、実質収入は1945年3月には月2円、6月には月65銭、8月は月10銭にしかなりませんでした。

日本軍がラングーンから撤退した時、道路には一面にルピー軍票が捨てられていたそうです*8

*1:http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/14/38

*2:実勢レートが公式レートから乖離していても、民間の交換所などありませんので、海外からの送金手続きを取るか、渡航の際に経理部などで換金するしかなく公式レートが適用され、またビルマから日本に向かう者が、1円=7ルピーの実勢レートでは損をするだけなので換金は、公的機関で行われていました。ただし、送金であれ携行であれ、換金額には限度があり、大量のルピー軍票を持って日本に帰る際に全て円に換えることはできませんでした。例えば、1942年3月の「陸亜普第一八二号 (甲) 外貨表示軍用手票ノ払出、預託及引換ニ関スル件陸軍一般ヘ通牒」によれば、軍人以外の者が外貨軍票を日本円に引き換える場合、1回10円が限度とされています。

*3:http://ameblo.jp/scopedog/entry-10037003693.htmlhttp://nyanko001.blog.ocn.ne.jp/kabu/2007/01/post_9f01.html

*4:http://ameblo.jp/scopedog/entry-10033162494.html

*5:http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/14/38

*6:強引な買い付けや隠匿物資の押収などで得た物資を部隊に支給する占領統治上の悪影響を無視した最後の手段

*7:http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/14/38

*8:ビルマ遠い戦場(下)P84」