ビルマに派遣された特殊自動車隊兵士の証言

千田夏光氏の「従軍慰安婦」(1973年初版)からの引用です。

1943年頃

P168-169
ビルマで大きな慰安所は、モールメン、トングー、ピンマナ、メークテーラ、マンダレー、ラングーンにありました。比率は朝鮮人慰安婦一〇、ビルマ慰安婦四、中国人慰安婦と印度人慰安婦は二、日本人慰安婦〇・八ぐらいの割りではなかったかと思います。日本人慰安婦はここでも将校用でした。まず朝鮮人、日本人の慰安婦が進出し、半年ほどの間に中国人、ビルマ人、印度人の女が集められ慰安婦にさせられたのでした。もっとも朝鮮人、日本人の慰安婦たちが、部隊と一緒にタイとの国境を山越えしてやってきたのか、その後、占領後だったのかはよく知りません。
 各部隊では、多いところで、一ヶ所の慰安所に二十ぐらい、普通は十人ぐらい女がいました。女はみな二十歳前後で、気分的にはよかったですね。インドピー*1は、あのすその長いロンジーを着ていました。
 兵隊は日曜の外出で慰安所に行くんですが、原則としてサックを使うんです。サックは、申し出ると支給されました。もちろん、タダでした。用を足せば、部屋の入口にある紫色のクスリで自分のを消毒するんです。消毒用の設備は、病院で使うリンゲル液の注入器のようなものです。ガラスのビンをさかさにしたようなものの器の先に、細いゴムのホースがついていて、使わない時はゴム管がクリップでとまっていました。
 払った金は確か、二円か、三円だったと思うな。軍票でね。ルピーでした。

1944-45年頃

P170-71
(略)マンダレーにも大きな慰安所がありました。ここでも日本人女性は将校用でした。兵隊用は、ビルマ人、中国人、朝鮮人、インド人たちでした。それに、パイサンメマ。パイとはお金、メマは女の意味です。だから、パイサンメマとは、現地人の女のことです。彼女たちは情熱的にやってくれるのでよかったですね。
 モールメンでは、(略)
 その山の中に、ニッパ椰子を葺いた“竹の掘っ立て小屋”があって、現地の女がいました。
 ビルマ紙幣で二円か三円払いました。私は、紫色の丸薬を看護兵からもらって行って、水にといて消毒したから、無事だったけど、帰って来てから、船舶工兵は腿のつけ根が腫れてしまって、軍慰安婦以外の女を買った罪がばれ、上等兵から一等兵に階級を下げられてしまいました。
 (略)他の隊ですが、ナンジョン*2という石油の出る奥地に入った隊は、後方から慰安婦を送って来ないので、そこで、現地の女を集め、自分たちで勝手に慰安所を作ったと聞きました。

ビルマ人は親日

従軍慰安婦」の記述からは1944年後半と思われる時期でも、2〜3ルピーで現地人慰安婦を利用していることがわかりますが、当時のインフレ状況を考慮すれば、山中のためインフレの影響が遅れていたのか、それとも占領軍の立場での買い叩きだったのか、いずれかであったでしょう。
1944年まで一般に、ビルマ人は日本軍に対して友好的に見えました。しかし、ビルマ方面の日本軍の敗退が、誰の目にも明らかになった1945年には一般市民も含めて日本軍に襲い掛かるようになります。

(「軍医のビルマ日記」1994/10/1 第1版第2刷、塩川優一、P252)
五月一七日
 ビルマ反乱軍に追はれし兵の話。ビルマ軍といふのは、オンサン少将を中心に、ビルマ国防軍として<日本軍によって>建てられた、<ビルマの>唯一の正規軍なるも、<日本軍の敗戦により>俄に反旗を翻す。為に日本軍、腹背に敵を受けるに至れるなり。
 ペグー道の至る所の土民は、反乱軍と連絡しあり。<日本兵が通ると>「ラバラバ」[ビルマ語で来たれ、の意味]と親切(そう)に呼ぶ。これは最も危険にて、<呼び込んで>「飯を食べろ」、「寝ろ」といって置いて、ビルマ軍を呼び入れ、ビルマ刀にて首を切る。そこで、<日本兵がそれを防ぐためには>その手に乗った様な顔をして置いて、「水を汲んで来てくれ」などといって、行った隙に一散に逃げるなり。一度追いかけられ始めたら、次々の部落よりぞくぞくとビルマ人が出て来て追って来るので、とても逃げ切れず。殺さるるや、装具はおろか褌迄取って、凱歌を上げる。日本人に対する反感より、掠奪の方の意味多からん。
 ペグー道は、マンダレー方面より追はれた兵や患者続々南下するも、その途上、かくして敢へなき最期を遂げし者多しと。ビルマ人は親日的などと言ってゐたが、実は大した事なかりしわけ。これから<先>モールメン迄の途上にも、四〜五〇〇〇人の新兵器を持ったビルマ<の反乱>兵ありと。オンサン将軍の威力も大したもの。

*1:インド人慰安婦

*2:エナンジョン