汚い言葉での差別のどこに反対するか、という視点

東京・新大久保の韓国人排斥デモに見るヘイトスピーチと言論の進歩(降旗 学)」という記事に対して、ブコメでも書きましたが、エントリーにもしておきます。

降旗氏はここで、新大久保などで見られる在特会などの嫌韓デモに対して批判的な記事を書いています。しかし降旗氏の場合、在特会による汚い言葉を用いた排外差別に対し「汚い言葉を用いた」部分だけを批判し、「排外差別」に対しては批判しているようには見えません。
こういう姿勢は在特会などのネトウヨを批判しているネット上の論者にもよく見られますが、要するに彼らは「汚い言葉を用いない」排外差別を許容し、あるいは支持すらしているわけで、差別主義者・レイシストという意味において、在特会と何ら変るところがないわけですね。

本来、言葉の清濁など大した問題ではなく、言動が本質的に排外差別であるかどうかが問題です。

これが理解できない人の言うヘイトスピーチの法的規制などは、危険すぎてとても賛同は出来ませんね。