1937年12月の蕪湖における日本軍の暴行に関する記録

日中戦争における日本軍の虐殺・暴行というと、南京事件しかないように言う人もいますので*1、南京以外の状況について参考までに。

引用は古典的ですがティンパリーの「外国人の見た日本軍の暴行」からです。これには南京以外の華中や華北のことについても言及されていますので、当時の状況を知る上で参考になると思います。
蕪湖は南京の南西に位置し、南京からは長江の上流に位置しますが、南京侵攻にあたって日本軍は南方から半包囲する形で進撃したため蕪湖は南京よりも早く日本軍に占領されています。

「外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ、評伝社
(P93-95)
 蕪湖占領の日本軍は十二月十日以来いよいよその数を増し、鉄道や、江岸や、太古公司碼頭等の付近に砲兵陣地を構築した。日本兵は逃げ遅れた少数の中国兵に対して残酷に取り扱い、また気に入らぬ市民に対しても暴行を働いた。いかなる民船、あるいは艀舟に対しても機銃掃射を見舞った。病院の前に漂着した一隻の船などは、乗っていた三人とも負傷していて、その中の一人は身に十発も弾を受けていた。
 十二月は毎日緊張と困難、時には危険な経験にさえ満たされていたが、今日までのところ我々の病院に逃れてきた一千四百人の難民(彼らは我々が十分保護出来ると信じていた)も無事であった。ただ日本兵が時々病院に入ってきたり壁を乗り越えてくることもあったし、また僅か四百人の収容能力しかない所へ一千四百人も入ってきたので、この食住衛生や秩序を考え、その安全を保持し、生活を維持するために我々は機敏と忍耐と良心によってやっていかねばならなかった。
 蕪湖占領後一週間は日本軍は良民に対して虐待虐殺を行い、住宅にも入り込んで掠奪破壊を働き、私の二十年間の中国におけるいかなる経験にも比のないくらいであった。中国兵は蕪湖の外国人の財産には手をつけなかったが、日本兵は特に外国人の家に入り大々的に掠奪を行った。わずかに米国人の看守をつけておいた家のみ無事であった。
 ここでは激烈な戦闘は行われなかったので、蕪湖の状況はあるいはその他の地方のごとく悪くはないかも知れない。しかし日本兵はここでも婦女を捜しては凌辱行為を働くので、ここ数日来これらの婦女を救護するのが我々の主要な仕事となっていた。婦女が匿れていると聞けば、我々は直ちに車を走らせて迎えに行った。ある日などは一日に四回も出掛けて若い婦女子を連れて帰った。そのため他の仕事を十分に出来ないくらいであったが、今ではこの工作が一番大切なものと思われた。このために使用した自動車はアルビン君とアーボー君が私に贈ってくれたものである。私はどんな方法で彼らに感謝してよいものか判らない。もしもこの自動車がなかったならば、我々は婦女を救出したり、食料等の必需品を運ぶことも出来なかったであろう。
 私は務めて日本軍当局および最近蕪湖に来た日本領事館との接触に努力した。彼らは米国人の財産を保護することを確信*2したので、私は私の一切の力を挙げて彼らに兵隊が再び中国の民衆を虐待しないことを約束させた。彼らは既に兵隊に対して中国人虐待や中国人の使役使用を禁止していると確言した。大多数の将校も再びこのような暴行が行われぬことを希望した。だが、中国人、特に婦女子が街に出ることはなお安全ではなかった。二日ばかり前、私は病院のボーイ二人を試みに出してみたところ、所持金を巻き上げられて使役にされてしまった。私は直ちに指揮官あて抗議を提出した。彼は恐縮して銭を返してきた。だがもしも米国病院の使用人ではかったならば、絶対に救出出来なかったであろう。
 十二月十三日、日本兵は病院に属する一艘の船に掲げてあった米国旗を水中にほうり棄てたので、私は直ちに竹竿でそれをすくいあげ、濡れて滴のたれるままに日本軍の指揮官に見せた。他方駐滬米国当局にも事件およびその他若干の事件を報告した。日本陸海軍および領事館方面では人を派して謝罪してきた。パネー号事件以来日本人は米国人に対して気兼ねしている様子であった。パネー号で負傷した米国人、中国人のうち数人はこの病院にも入院していた。
 死体置場にはすでに若干の死体が積まれてあったが、人夫は街に出るのを恐れて埋葬も出来ず、また棺桶の木材も使い切っていたので我々はやむをえず、病院内に大きな穴を掘り二十個の死体を埋葬した。
   一九三七年十二月三十日 於蕪湖

*1:その挙句、「南京だけで突然そのような大虐殺が起きたというのはおかしい」というロジックで否定論に走ったりするわけですが・・・

*2:「確言」の誤記か?