RAA設立の責任を米軍になすりつけようとする事例(追記あり)

小物です。

isam691973 2013/05/20 11:59
上陸前、20日マニラ会談でのレポート末文によりRAAは起草されたはずだけど?
慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ、と。
反日的印象操作は良くないな〜

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130317/1363532913#c

8月20日のマニラ会談以前の8月18日に「進駐軍特殊慰安施設について」という電報を内務省警保局長が出していると当該エントリの最初に書いてるんですけどね。

RAA(Recreation and Amusement Association:特殊慰安施設協会)は、東久邇宮内閣が成立した1945年8月17日の翌日、内務省警保局長・橋本政美が各庁・府県長官宛に発せられた「進駐軍特殊慰安施設について」と題する電報から始まります。もちろん警保局長が勝手にやったのではなく、前日の東久邇宮内閣の初閣議で決められたことはまず間違いなく、敗戦後初の内閣が最初にやったことが、連合軍将兵の下の世話だったわけです。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130317/1363532913

isam691973氏の脳内では、8月20日のマニラ会談で決定した結果、時間を遡って8月18日の電報になったという残念な状態になっているようです。
まあ、1945年8月は時空がゆがんでいたのかも知れませんねぇ。

ちなみにマニラ会談の内容は、連合軍側が明示的に売春婦の斡旋を求めたものとは言い難く、これをもって連合軍側が女性を差し出すよう求めたと断言するのは無理があります。

(略)ここで極め興味深い事実を指摘しておきたい。それは、連合軍「進駐」に先立ち「進駐」等の手順を決めるために行われたマニラ会談(八月二〇日)において、「慰安施設」の要求が連合国側よりあった可能性である。マニラ会談の直後、八月二二日付けで内務省警保局は地方総監、各庁府県長官宛に「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書を発令している。これはマニラ会談の雰囲気や今後の「進駐」日程等を、伝えたものであったが、その最後の項目につぎのように記されていた。「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」(38)。これは、会談当時の模様を伝えるいわば間接情報であり、そのことの真偽、つまり、これが会談における公式な要求としてでたのか、或いは、聯合軍側の代表の私的な会話を伝えたものなのかを判断することはできない。又、仮にこれが公式な要求であったとしても「慰安」の意味の日米間での理解の相違の可能性もある。そもそも、日本政府による慰安施設の準備は、河辺虎四郎ら日本代表が出発する以前に命令されており、この資料を以て特殊慰安施設がアメリカから強制されたものであると証明することはできない。しかし、アメリカ側がこのような施設の要求をしたことを完全に否定することもできないのである。

http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/ronbun/hisenryou.htm

なお、「慰安施設」という用語自体は、健全な娯楽施設にも使われていたことがあり、いわゆる軍慰安所を健全な「慰安施設」と区別するために「特殊慰安所」と呼ぶこともありました(営外施設規定参照*1)。戦前までさかのぼると健全な娯楽施設としての「慰安所」という文言が見られます。戦争を経て、日本では「慰安所=売春宿」という認識に変化しているわけです。
さて「慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」が連合軍側の原語での要求では何だったのか、RecreationなのかProstituteなのかでだいぶん違うでしょうね。

その2

ふーむ 2013/05/20 14:19
「磯村英一元東洋大学長は東京都渉外部長だった終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)から「占領軍の兵隊のために女性を集めろ」と命令された」そうです。
磯村英一氏の記事全文です。
http://niyata2807.tumblr.com/post/50847057959

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130317/1363532913#c

URL先は1994年の産経正論のようですが、「終戦直後」と書かれていますけど原文ではこうなっています。

敗戦の年のクリスマス、司令部の将校から呼ばれて“ヨシワラ”の状態の報告を命ぜられた。もちろん、その地区は焦土と化していた。命令は宿舎を造って、占領軍の兵隊のために、“女性”を集めろということだった。

http://niyata2807.tumblr.com/post/50847057959

敗戦から4ヶ月経った1945年12月25日のことですから、既に日本政府主導でRAAが設立された後の話ですね。1945年12月を「終戦直後」と呼ぶかどうかは微妙ですが、元エントリではRAAが1945年8月に設立されたことを取り上げていますので、コメントした場所を踏まえると「終戦直後」という表現は不適切に思えます。
そして、1945年12月25日のことである以上、RAAを設立したの日本側であることを否定する根拠にはなりません。

日本政府が準備したRAAを利用していた米軍側から、“もっと集めろ”的な指示もあったでしょうねとは思います。連合軍が無垢な存在だとは思っていないからこそ、なので元エントリで吉見氏「従軍慰安婦」から以下の一文を引用したわけです。

結局、日本人も連合国軍も、戦争中の従軍慰安婦制度を人権侵害問題として捉えるという意識が希薄なまま、推移していくことになった。

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130317/1363532913

追記(2013/5/23)

id:Cunliffe さんからの情報で、「マニラ」ニ於テ手交セラレタル連合国最高司令官要求事項を確認したところ、米軍が慰安施設を要求したという記述はありませんでした。
こちらは「書誌事項:マニラ会談において日本側に手交された要求事項。江藤淳編著『占領史録』第1巻から引用」とありますが、マニラ会談で米軍が要求したという説では「『敗戦時全国治安情報 第一巻』。」*2を参照しています。

引用された記述内容を勘案すると、どうも少なくとも正式な要求ではなかったように思われ、せいぜい会議中に口頭で示唆された程度なのではないかと思えます。

id:dempax さんからの情報では、東京の売春業者が警視庁に集められたのは8月17日*3とのことです。内務省が各地に電報を打つ前日、東久邇宮内閣の成立したその日ですから、何とも手回しのよいことですねぇ。

お二方とも有用な情報、ありがとうございました。