単純な厳罰化には反対

最後の一文「被害者保護の仕組みも整えたい。早期に適切な援助を受ければ回復も早いことが分かっている。性暴力被害者ワンストップ支援センターを沖縄にも早急に設立したい。」や強姦致傷被害者が「裁判員裁判を避けたいがゆえに傷害の事実を伏せることもある。現行制度の矛盾だ。」という点には同意ですが、軽々しく厳罰化を煽る論調には反対です。

社説 義父性的暴行 日本の法制度を見直そう2013年6月8日

 あまりにも軽すぎ、あまりにも理不尽だ。判決を聞き、そんな感想をどうしてもぬぐえない。
 小学生だった義理の娘に対する性的暴行の罪に問われた被告(31)の控訴審判決で、福岡高裁那覇支部が一審の懲役7年の判決を破棄し、懲役6年を言い渡した。「量刑をそのまま維持するのはいささか酷」と判断した。
 市民感覚と隔絶しているとの感を否めない。人権をめぐる世界標準の考え方から日本の法制度がいかにずれているかも示していよう。これを機に、性暴力をめぐる日本の法制度の問題点に真正面から向き合いたい。
 減刑した理由はこうだ。被告は賠償命令に従いお金は払ったし、被害者の母の実名を新聞が報じたから被告に社会的不利益が生じた。だから酷だというのだ。
 賠償命令に従うのは当たり前の話だ。被害者とその母は勇気を持ってこの犯罪の重さと被害者支援の重要性を訴えた。それが減刑につながるなら、被害者は泣き寝入りするほかない。理不尽な、転倒した論理ではないか。
 被害者は「暴力をふるわれた。泣いてもやめてくれませんでした」「犯人へ。絶対に許せない。死ぬまで刑務所に入っていてください」と懸命に訴えた。その結果の減刑に、納得できる人がいるだろうか。
 性暴力に対する日本の量刑が低すぎることはつとに指摘されている。2005年施行の改正刑法で法定刑は引き上げられたが、それでも強姦罪は3年以上の有期懲役にすぎず、執行猶予が付くこともある。強盗罪は5年以上だから執行猶予は原則あり得ない。千円を強盗した犯人の方が往々にして刑が重くなる。女性の尊厳より金銭に重きを置いているのは明白だ。
 裁判員裁判市民感覚が反映され、強姦致死傷は重罰化したが、致死傷が付かないと裁判員裁判にならない。裁判員裁判を避けたいがゆえに傷害の事実を伏せることもある。現行制度の矛盾だ。
 児童への性暴力は欧米では重罪だ。犯人は一生、衛星利用測位システム(GPS)を身体に装着されることもある。その是非はともかく、それに比べると今回の判決はいかにも軽い。刑法の再改正も検討すべきだ。
 被害者保護の仕組みも整えたい。早期に適切な援助を受ければ回復も早いことが分かっている。性暴力被害者ワンストップ支援センターを沖縄にも早急に設立したい。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-207715-storytopic-11.html

義父の立場を悪用して幼い娘に性的暴行を加えたという犯罪が卑劣なのは言うまでもありませんが、これに対して単純に厳罰化を訴えるのは問題認識を誤っているようとしか思えません。この犯罪行為の卑劣な点は、本来子どもを監護すべき親という立場、しかも他者の介入を排除できる立場にある者が監護されるべき者に対して犯している点です。この場合、被害者にとって加害者は自らの生存・生活を保障する立場という圧倒的に強大な存在であり、しかも被害者は他者に助けを求めることができない状況に置かれています。この固定した支配構造が強い閉鎖性を持っていることこそが問題の根幹です。
この手の犯罪の加害者は、義父に限らず実父であることもあり、また実母が共犯となる場合もあるなど多種多様ですが、共通するのは加害者や共犯者が被害者の生存・生活を支える立場にある点です。それ故に被害者は逆らうことが出来ず、暴行の内容が加速度的に悪化していくわけです。
これは家族内のことを法治上の聖域にしている文化や制度の構造的な問題であって、単純に厳罰化して解決する問題じゃありません。逆に単親家庭や父母が共犯となっている場合、厳罰化することによって事件の発覚が被害者にとって親の喪失につながる恐れすらあり、それ故に被害者が被害を訴えなくなる可能性もあります。
子どもは例え自分を虐待する親であってもその親を慕うことがあり、それは珍しいことではありません*1 *2
厳罰化は、傷ついた子どもから愛する親を奪い去りさらに傷つける結果になる、あるいは、その恐れから事件の発覚がより遅れる可能性があります。

今回の事件の加害者が「義父」であることから「市民感覚」が厳罰化を容認してしまうのかもしれませんが、「義父」であることがこの問題の本質ではありません。虐待する実父もいれば、虐待しない義父もいます。もちろん、義父と実父で刑罰に差をつけるわけにはいきません。しかし、この記事やそれに同調するコメントを見ると、これがもし実父であった場合にも同じく厳罰化を要求したのか疑わしく思えるくらい単純な思考に感じます。
果たして本当に子どもの立場に立っているのでしょうか?

子どもにとって必要なのは、虐待する親を厳罰に処すことではなく、虐待しない親に育てられることです。
したがって最も重要なのは、このような虐待被害の防止と、虐待が深刻化する前に介入し親に虐待防止のための教育を施し家族の再統合を図ることであって、厳罰化じゃありません。

問題の根幹である家庭という固定した支配構造が強い閉鎖性を持っていること、これを解消するためには家庭内での軽微な暴行であっても容易に公権力が介入できるようにし、かつ、公権力の介入が家族の解体にならないよう支援とセットで行うことが必要です。
以前、アメリカの裁判官が妻に暴力を振るって逮捕された夫に対し、妻をディナーに連れて行くように申し渡した裁判が日本のテレビでも報道されました。すぐに釈放され離婚にもならなかったことから、この事件での夫の暴力は日本なら民事不介入で無視される程度だったと思われますが、それでも逮捕され裁判になっています。しかし、日本ならDVで裁判沙汰になればまず離婚に至るでしょうが、この裁判では夫婦として再統合を図る判決を出しています(確か夫にDV防止のカウンセリングか講習かを受けるようにという命令があったはず)。
逮捕や裁判沙汰が強いスティグマになる日本ではこのようにはいかないでしょうから、別個の制度が良いとは思いますが、例えば家裁の調停委員の権限を強化して親に虐待防止の講習を命ずる権限を持たせるなどはありかも知れません。親や子どもの通う学校に子どもの様子を家裁に報告するよう命ずる権限を家裁に与えても良いでしょう。親権停止の制度をもっと有効に運用するべきかもしれません。
上記記事では深刻な虐待が起きてしまってからの話ばかりで、早期に対応して深刻化させないという視点に欠けています。そのために厳罰化の話に重点がいってしまうのでしょう。


虐待親を厳罰に処して喜ぶのは、親を失った子どもがこの先どうなるのかを考えもせずに、自身の加罰欲求を満足させたい連中だけです。


なお、家庭内への公権力の介入と言うと、「親学」のような価値観押し付けの右翼的な政策も思い浮かびますが、私が支持する家庭内への公権力の介入とは、家庭内で問題が生じた時の適宜介入であって、問題の発生にかかわりなく指導・訓育すると言った予防的介入ではありません。念のため。

*1:2012年広島で起きた長女虐待死事件でも、被害者となった長女は加害者である母親を慕っていました。

*2:全く逆に、子どもに自分を愛する親であってもその親を異常に嫌悪することも珍しくありません。この事件では母親が義父を糾弾する側にいますが、片方の親が他方の親を子どもの前で糾弾し他方の親に弁明する機会を与えないと、子どもは容易に他方の親を憎むようになることがあります。その点で「被害者は「暴力をふるわれた。泣いてもやめてくれませんでした」「犯人へ。絶対に許せない。死ぬまで刑務所に入っていてください」と懸命に訴えた。」という部分については、そのまま受け入れるには慎重にならざるを得ません。