リベラルのための離婚後共同親権に関する説明

離婚後共同親権とは何か?

現行民法では未成年の子のいる夫婦が離婚する際にいずれか一方を親権者と定めなければならず、離婚後も夫婦双方が親権を持つことを認めていませんが、これを改正して離婚後も夫婦双方が未成年の子の親権を持つことを認める制度のことです。
主要先進国のなかで、唯一日本だけが離婚後の共同親権を認めていません。

離婚後共同親権はなぜ必要か?

親(夫婦)の視点

婚姻は両者の合意によって成立・維持されるべきものというのは、リベラルの基本的な考え方でしょう。
それは同時に、両者の合意が失われたら離婚できるべきだということでもあります。
両者の合意が実質的に失われているのに、“子どもがいるから”と言う理由で婚姻を維持すべきだというのはリベラル的な考え方ではありません。
離婚の自由が保証されるためには、子どもの存在が枷になってはならないような制度にする必要があります。

“離婚後に養育・育児を単独で担わなければならないから離婚できない”とか“離婚したら子どもとの関係が切れてしまうから離婚できない”とかが枷にならないようにするためには、離婚後も共同で養育・育児を担う責任と関与する権利を双方の親に付与する必要があります。

現行の単独親権制度では、実質的に養育・育児の責任は単独親権者に負わされ、非親権者は関与の権利を失うことになります。現状でも当事者の努力・協力によって共同養育を行うことは可能ですが、制度的な担保が無いため当事者間の些細な対立から簡単に壊れる脆さが残ります。まして離婚した夫婦である以上、そもそも感情的には対立しやすい状態にあるわけで、それを踏まえれば尚更、些細な対立からいずれか一方の親子関係を破壊させないように制度的な担保を設ける必要があります。

子どもの視点

離婚の自由というのは夫婦の視点になりますが、子どものいる夫婦の場合は親の責任が発生するため、離婚の自由も一定の制約を受けます。すなわち、子どもの福祉が損なわれないように、損なわれるとしてもそれが最低限になるように、という制約です。
“子どもがいる場合は離婚するな”では親の人権が著しく制限されますし、さりとて親の離婚の自由を制限無く認めれば子どもの福祉が損なわれます。そこで折り合いをつけようとすると、離婚はやむをえないが、離婚しても子どもの福祉の損失を最小限に食い止める、とするしかありません。

子どもの福祉とは何かと言えば、理想的には、いかなる虐待も受けることなく双方の親から愛情をもって生育されることであり、そのためには虐待のない親(夫婦)が離婚しても、子どもは引き続き双方の親と交流できるようにすることが必要になります。

これらの視点を整合的に調和させる手段として離婚後共同養育があり、それを安定的に運用する制度として離婚後共同親権が必要になるわけです。

離婚後も協力できる夫婦は共同養育できているから離婚後共同親権は不要?

離婚するような夫婦でも、子どものためと離婚後共同養育できる夫婦は確かに存在します。
しかし、そのような協力的な元夫婦であっても、離婚に至った経験がある以上、感情的な対立の火種を抱えているのが普通で、それは何かのきっかけで再燃することが当然ありえます。単純に当事者の協力によってのみ成立している共同養育では、当事者間が対立すると容易に破綻してしまいます。

例えば、離婚後も共同養育できていたが元夫婦のいずれか一方の再婚を機に対立することがあります。新しい配偶者が共同養育に否定的でその影響を受けることもありますし、元配偶者の再婚に対して感情的な不満を覚えることもあります。共同親権という制度的な担保が無いと親子関係とは無関係の事情によって生じた対立がそのまま共同養育を終焉させることにつながりかねません。
のような事態を避けるためにも離婚後共同親権という制度が必要です。

子どもにとっては?・1(面会交流の重要性)

そもそも親の離婚自体が子どもに非常に大きな負の影響を与えます。
離婚によって一方の親とあえなくなると、自己肯定感が低下するなどの短期的な影響が生じます。簡単に言うと、“自分が悪い子(要らない子)だから、パパ(ママ)は出て行ったのではないか”と思うわけです。
離婚後も別居親と子どもが十分に面会交流をした方が良いというのは、こういった自己肯定感の低下を避けるためという意味合いがあります。

子どもが“自分が悪い子(要らない子)だから、パパ(ママ)は出て行ったのではないか”と思っているときの同居親の対応には3パターンあります。

1.“その通り、お前が悪い”

別居親に未練があり離婚したくはなかった同居親がしがちな対応です。もちろん、子どもにとっては非常に大きな悪影響となり、本来もっとも避けるべきパターンです。同居親による子どもに対する虐待にもつながりかねない危険な状態でもあります。

2.“そんなことはない。出て行った別居親が悪いのだ。”

別居親に対して悪感情を抱いている同居親がしがちな対応です。自分(同居親)が抱いている別居親に対する感情に子どもも同調してほしいという願望が背景にあります。これも子どもにとっては子ども自身の別居親に対する愛情を素直に表現することが出来なくなり、大きなストレスとなります。
子どもに別居親に対する怒りが生じることもありますが、別居親には弁解する機会が無いため、子どもは別居親の愛情を再確認することが出来ず、負の感情を蓄積することになり精神的な負担となります。精神的な負担から回避しようと、同居親に同調して別居親に対する怒りを内面化していくと、病的な片親疎外となります。

3.“そんなことはない。自分(同居親)が悪いから別居親が出て行ってしまっただけで、別居親はあなたのことを変わらず愛している。”

子どものストレスを最も低減できる対応です。別居親に対する愛情を維持していて良いというメッセージにもなり、子どもにとっては最も安心できる対応です。“自分(同居親)が悪いから別居親が出て行ってしまった”といっても子どもの怒りが同居親に向かうことは少なく、その場合でも同居親には子どもとの信頼関係を再構築する機会があるため、深刻化することは少ないと言えます。

映画「クレイマー、クレイマー 」で、ダスティン・ホフマンはこの3の対応を採っています。
しかし、全ての同居親がそのような対応をとれるわけではありません。
仮に同居親がそのような対応を取れるほど人間的に成熟していなかったとしても、子どものストレスを緩和できるような第三者の介入とサポートが必要です。

子どもにとっては?・2(面会交流だけでは不十分)

十分な面会交流を行っていたとしても、父母が対立している場合はやはり子どもに大きなストレスがかかります。子どもにとっては両親とも慕うべき相手でありながら、その両者が対立している状態というのは非常に大きなストレスになるからです。
したがって、子どもの福祉を考慮するなら、離婚後の配偶者間の対立はなるべく最小化する必要があるわけで、そのためには離婚時において不要な対立と葛藤を煽らず、婚姻生活は続けられないが、互いに親として尊重しあう友好的な関係の構築を図るべきだと言えます。

しかし、離婚が裁判所で争われる状態になると、双方の代理人弁護士が不要な葛藤を招くこともあり、またそもそも感情の対立を招きやすいものでもあり、対立と葛藤を抱えたまま離婚するケースは日本以外でも少なくありません。

さらに、双方の親が友好的に共同養育に関与している場合でも、子どもには長期的な悪影響が残ります。十分な面会交流と親同士の友好的な対応から短期的な自己肯定感の低下やストレスは避けられるものの、結婚に対する良いイメージが形成できないという影響が子どもに出てきます。つまり、“結婚とはいつか破綻するもの”という認識を抱いてしまうわけです。
こういった長期的な離婚の影響に対して有効な対応というのは、今のところ知見が確立されておらず、離婚後共同親権先進国である欧米でも課題とされています*1

しかし重要なのは、友好的な関係で十分な面会交流をしても尚離婚家庭の子どもに悪影響が残るからといって、“離婚後共同親権は間違い”だとか“離婚したら非監護親は子どもの人生から消えるべき”などといった主張が主流になったりはしていないということです。
未だに離婚後単独親権を固持する日本では、離婚が子どもに及ぼす影響について、欧米の遥か以前で足踏みしているような状態とも言えます。

DV・虐待がある場合も共同親権を強制するのか?

離婚後共同親権を採用している諸外国でも、DV・虐待のある場合に共同親権や面会交流を強制するような運用はしていません。日本が離婚後共同親権を採用するとしても、DV・虐待のある場合に共同親権を認めるような運用になるとは考えられません。
もちろん、DV・虐待を把握できずに見落とすリスクはありますが、それは諸外国も同じです。

離婚後共同親権採用国で離婚後別居親による事件や面会交流中に別居親が起こした事件とかがあるとそれを殊更に誇張する論調が離婚後共同親権反対派から流布されますが、そのような意見は政治運動的な偏向性が強いと言う他ありません。

例えば、ひとり親家庭での児童虐待事件を取り上げて、“ひとり親は危険だ、離婚家庭の子どもは全て施設に入れるべき”なんて主張はしませんよね。加害者となったひとり親が追い詰められた結果であれば、追い詰めないような支援を構築すべきという方向になるでしょうし、加害者自身の虐待傾向が原因であれば、そのような親に単独親権を与えないような運用を求める方向になるでしょう。
金嬉老事件*2を挙げて“在日は危険だ、日本から排除せよ”と主張するのか、それとも“在日を追い詰めるような差別的な状況を改善するべき”と主張するのか。リベラルなら後者であるべきでしょう。
同じように、離婚後別居親による事件に対しても、“別居親は危険だ、別居親には親権も面会交流も禁止すべき”なんて主張をするのではなく、別居親を追い詰めるような状況を改善するような運用を求めたり、DV・虐待傾向の強い別居親に対してはより適切に判定して制限できるように対策を講じるべきではないでしょうか。

日本はDV・虐待対策が遅れているから離婚後共同親権を認めるべきではないのでは?

このような主張も離婚後共同親権反対派からは良く聞こえてきますが、三つの点で誤っています。

第一に、1970年代に離婚後共同親権を導入したアメリカは、その時点で十分なDV対策を実施していたわけではなく、離婚後共同親権の普及とほぼ並行してDV対策の法整備が進められています。日本には既にDV防止法があり、1970年代のアメリカよりもDV対策の法整備は進んでいると言えますが、離婚後共同親権だけが遅れているのです。

第二に、DV・虐待に対しては既にDV防止法・児童虐待防止法があり、DV・虐待対策はこれらの改善で対応すべきことです。DV・虐待を理由としてDV・虐待のない離婚後親子関係に対しても単独親権を強いるのは不合理です。

第三に、DV・虐待の懸念は現在の離婚後単独親権下でも存在しています。DV加害者・虐待加害者が単独親権者にならない保証はどこにもなく、民法819条は単独親権者を決定するにあたってDVや虐待の有無を考慮することになっていません。離婚後共同親権反対派はこの点について無視しています。

日本では虐待親を排除できる体制が無いので離婚後単独親権で虐待親を排除するしかない?

民法には虐待・ネグレクトを行う親の親権を停止・喪失させる規定が既にあります(民法834条、834条の2)。
参考:親権制限事件及び児童福祉法に規定する事件の概況―平成30年1月~12月-

民法819条による親権喪失(離婚に伴う一方の親の親権喪失)をお手軽な“虐待親”排除手段として利用しているという主張もありますが、これは極めて危険です。なぜなら民法819条による親権喪失は離婚以外の要件が無いため、虐待親が単独親権者となることを法的に許容しているからです。
離婚共同親権反対派は、離婚後単独親権者が全て善人か無垢なDV被害者であるかのような前提を置いていますが、民法819条は親権喪失した方が虐待親であることを何ら保証しておらず、親権獲得した方が虐待親でないことも保証していません。

離婚後共同親権になったとしても、虐待の懸念があるのであれば離婚時に親権喪失の審判を申し立てれば良く、運用上の改善の余地はあるとしても虐待親が排除できなくなるわけではありません(実際に離婚後共同親権を採用する場合、離婚に際して虐待の懸念を判断することになるとは思いますが)。
また、離婚後共同親権反対派のなかには、現行民法での親権喪失の要件が厳しすぎて虐待親が排除できてないと主張する人もいますが、民法819条による親権喪失を“虐待親”排除手段として代用することは、法的には親権喪失に相当する虐待加害者ではない親から親権を剥奪していることに他ならず、法治の観点からも問題であると言えます。

もし離婚後単独親権者が子どもを虐待するのなら、親権者を変更すればよい?

虐待親が単独親権者となった場合はどうするのか、という問いに対して木村草太氏や猪野亨弁護士が主張している内容です*3。これも色んな意味で間違っています。

猪野弁護士は単独親権者が「本当に虐待しているのであれば親権変更などを求める手続もあれば児相への対応を要請すべき」と言っていますが、親権変更が仮に認められたとしても子の引渡しが認められない限り、子どもを救うことはできません。そもそも単独親権者が再婚し子どもが再婚相手の養子になっているような場合は、親権変更の申立自体が制限されます。
子の引渡し事件も家裁はそう簡単に認めてはくれず、2018年の司法統計における子の引渡し事件は2548件ありますが、認容ないし調停成立した件数は590件(23.2%)に過ぎません。それもほとんどは婚姻中の事件であって、婚姻外で子の引渡しが認められたのはわずか79件です。
2012年度に児童相談所が相談対応した66701件中、虐待者が「実父以外の父」となっているものは4140件あり*4、離婚後単独親権者をその再婚相手による児童虐待に子の引渡し請求で対応できているとは到底いえない件数差と言えます。

そもそもの問題として、単独親権者が子どもを虐待している事実を非親権者がどうやって知りえるのかという問題があります。面会交流などが十分に保証されているならともかく、月1回以上の面会交流が認められることすら家裁に申し立てられた事件の4割(2018年司法統計によると39.4%*5)に過ぎません*6

“離婚後単独親権者が子どもを虐待するのなら、親権者を変更すればよい”という木村草太氏や猪野亨弁護士の主張は机上の空論と言う他ありません。

もちろん、児童虐待対策は離婚後共同親権の議論とは別個に改善すべきですが。

「親権」と言う用語は親の権利という印象が強く不適切では?

それは用語の問題であり、本質的な点ではありません。
用語として不適切であるなら、「親責任」でも「養育義務」でも構わないと思います。実際、英語でもcustodyという用語だけを使っているわけではありません。法律上の意味は変わらずとも、一般的な意識として適切な表現というものはあるでしょうから、そういった視点での議論は必要でしょう。
しかしながら、その議論が終了しなければ離婚後共同親権を導入できないわけではありませんので、反対する理由にはなりません。

養育費の徴収率を上げる議論が先では?

これも離婚後共同親権反対派からよく出てくる反対の理由ですが、これもいくつかの点で誤っています。

第一に、養育費に関する法制度は、民法877条の扶養の義務を基本として、民法766条で離婚時定めるべき事項の一つである「子の監護に要する費用の分担」として整備されています。強制力としては民事執行法が2019年5月に改正され、施行により勤務先・銀行口座情報の取得ができるようになって差押えが容易になるなど、離婚後共同親権の議論とは無関係に改善され続けています。養育費の取り決めがある場合、非監護親が給与所得者であれば、まず逃れられない制度にまでなっていますので、養育費の強制力不足をもって離婚後共同親権に反対する理由とすることは不合理です。

第二に、養育費の不払いが多い理由としてそもそも養育費の取り決め率が低いという問題があります*7。取り決めをしない原因としては、“離婚して親権を失ったら子どもの前から姿を消すべき”という日本文化の問題があります。離婚後共同親権にすることで、離婚して一緒に済まなくなっても親子であり「子の監護に要する費用の分担」をしなければならないという社会的な意識を醸成することが期待できます。すなわち、養育費の取り決め率を改善させる上で離婚後共同親権はむしろプラスに働くのであり、この点からしても反対する理由にはなりません。

第三に、養育費の不払いが多い別の理由としては、そもそも非監護親の収入自体が少なく裁判所などで養育費の取り決めをするほどもメリットがないという問題もあります*8。これは徴収率や算定表の額を上げたところで解決しない問題ですから、“これを解決しなければ離婚後共同親権を採用すべきでない”という主張は、単なる反対のための反対に他なりません。

補足・算定表の金額は低水準すぎる?

新算定表では、夫(非監護親)の年収450万円、妻(監護親)の年収150万円で15歳未満の子が1人の場合、養育費は4~6万円となっています。
この夫婦が共同で生活していた場合の世帯年収は600万円となりますが、2007年の野村證券の調査ではこの世帯年収の層での家計支出における子育て費用の割合は平均26.3%、ボリュームゾーンは20-30%未満です。同じく子の世帯年収の層での家計支出は月額平均27.2万円であり、ボリュームゾーンは20-30万円です。この月額27.2万円の26.3%は7.2万円になります。

この7.2万円を夫婦それぞれの年収比で分割すると、夫 5.4万円、妻 1.8万円 となります。
実際には、離婚に伴い別居することで、住居費が1世帯分余計に発生しますから、負担額はこれより減額せざるを得ないでしょうが、それを考慮しても夫(非監護親)の養育費負担が4~6万円というのは、まずまず妥当な範囲といえるでしょう。

また、同じく新算定表では、夫(非監護親)の年収800万円、妻(監護親)の年収300万円で15歳未満の子が2人の場合、養育費は10~12万円となっています。この場合も世帯年収1100万円の層での家計支出は平均40.3万円 、子育て費用の割合は平均29.1%ですから、子育て費用は11.7万円となり、年収比による負担額は夫 8.5万円、妻 3.2万円 となります。これも子どもの人数が2人であることを考慮すれば、養育費は10~12万円というのは妥当な範囲と言えるでしょう。

養育費、月1~2万円増 最高裁が算定表見直し (日経新聞 2019/12/23)
第10回 家計と子育て費用調査 (野村證券 2007.11)

以上のとおり、少なくとも金額面で見る限り算定表で示される養育費の額は基本的には妥当なものと言えます。むしろ、無視できないのは金額以外の面の養育負担で、同居時には育児を半々とは言わずともある程度分担していたのに、離婚により監護親側に養育負担の全てがのしかかる点です。同居時から全ての育児を監護親が担ってきたのであれば、離婚しても状況は変わりませんが、同居中は分担していたのなら相手が担っていた分が監護親に追加されることになり、これが大きな負担となっているはずです。
離婚後共同養育では離婚後も育児を分担するわけですから、本来ならそういう環境整備が必要なのですが、家庭裁判所の運用は今も尚離婚後面会交流の頻度を月1回数時間をベースとしており、離婚後共同親権反対派は面会交流にすら反対する有様です。
婚姻中・同居中は夫婦ともに育児すべきと訴えておきながら、離婚したら監護親のみに育児負担を課すべきという発想はリベラル的ではありません。

離婚後共同親権は、伝統的家族観や父権主義・家父長制の復活では?

離婚後共同親権の考え方は、離婚した後も変わらず親であるというものです。それは離婚した親が再婚しても変わりませんので、子どもの父が二人(実父と継父)、母が二人(実母と継母)であることを認める考え方でもあります。
子どもにはひとりずつの父と母がいるというのが伝統的家族観ですから、離婚後共同親権が伝統的家族観と相容れないことは明らかです。

父権主義の復活というのもあたりません。元々戦後民法における離婚後単独親権下において1960年代半ばまでは父親が全児の親権を行う形の離婚が多数派でした*9。子どもを家の跡継ぎとして父親が引き取り、母親を追い出すといった形での離婚で、こうした“イエの子”として父親(家長)側が子どもを独占することを許容しているのが、離婚後単独親権制度です。
1960年代半ば以降、母親が全児の親権を行う離婚の割合が多数派となっていきますが、父親が全児の親権を行う離婚件数自体はその後も年間 2~3万件で推移しています。全体の離婚件数が増えているため、父親が全児の親権を行う離婚の割合は減っていますが、件数自体はほとんど減っておらず、現在もなお存続しています。父親が全児の親権を行う離婚は、父親の育児参加の影響なども考えられますが、子どもを家の跡継ぎとみなして抱え込む文化の影響も当然否定できず、これらは離婚後単独親権制度下で存続してきた“父権主義”、“家父長制”の残滓でもあります。

なお、1960年代半ば以前も母親が全児の親権を行う離婚の割合はそれなりに高く推移しており(1950年時点で離婚事件の4割で母親が全児の親権を行っている*10)、戦後の民法改正以前から、母親が離婚に際して子どもを全児の親権を行う素地がありました。
1898年公布・施行の明治民法は、親権と監護権を分離する考え方をとっており、親権は子どもを“イエの子”とするため戸主(ほとんどは父)の独占でしたが(1898年明治民法877条)、監護権については離婚時に母親に委ねてよいとする規定がありました(1898年明治民法812条)。
戦前の統計が見出せないため推測になりますが、戦後民法改正以前から離婚時に母親に監護を委ねるケースが相当数あり、戦後民法改正で戸主規定が無くなり離婚後親権が監護権者に付随するようになったために、1950年時点で既に離婚の4割で母親が全児の親権を行うケースが生じていたものと思われます。

明治民法 (1898、明治31年公布・施行)

第877条1 項「子ハ其家ニ在ル父ノ親権ニ服ス但シ獨立ノ生計ヲ立ツル成年者ハ此限ニ在ラス」
第877条2 項「父カ知レサルトキ、死亡シタルトキ、家ヲ去リタルトキニ又ハ親権ヲ行フコト能ハサルトキハ家ニ在ル母之ヲ行フ」

http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/237/1/0140_002_005.pdf

第812条 協議上ノ離婚ヲ為シタル者カ其協議ヲ以テ子ノ監護ヲ為スヘキ者ヲ定メサリシトキハ其 監護ハ父ニ属ス父カ離婚ニ因リ婚家ヲ去リタル場合ニ於テハ子ノ監護ハ母ニ属ス前二項ノ規定ハ 監護ノ範囲外ニ於テ父母ノ権利義務ニ変更ヲ生スルコトナシ
第819条 第812条ノ規定ハ裁判上ノ離婚ニ之ヲ準用ス但裁判所ハ子ノ利益ノ為其監護ニ付キ之ニ異ナリタル処分ヲ命スルコトヲ得

http://hiroitz.sakura.ne.jp/resources/%E8%AB%96%E6%96%87/divouce2.pdf

戦後民法改正で戸主規定が消滅したことにより父方の“イエの子”と確定した状況は無くなりましたが、離婚後の親子関係については何ら規定されなかったため、結局は単独親権者となった監護者方の“イエの子”という状況に取って代わったのが戦後の状況です。
例えば、明治民法812条は、離婚後単独親権者(主に父)の許容する範囲でのみ非親権者(主に母)の監護を認めるに過ぎず、819条にて裁判所に子の利益に沿った処分の権限を与えているものの、ほとんどの場合離婚後単独親権者(主に父)の一存で非親権者(主に母)と子どもの関わりが断ちえたでしょう。
その状況は、現行民法下でも変わってはおらず、離婚後単独親権者(主に母)の一存で非親権者(主に父)と子どもの関わりを絶つことができるようになっています。

結局のところ、離婚後単独親権者が独裁的に監護下にある子どもと非親権者(非監護者)との関係を支配することができるのであり、それこそが戦前の父権主義・家父長制の残滓だと言えます。

共同親権運動に右翼が接近しているのでは?

それは否定できません。
ただし、元々そうだったわけではなく、例えばハーグ拉致条約締結前に日本人による子どもの拉致問題を提起された右翼議員らが激怒したというエピソードからもわかるように離婚後共同親権に対して右翼勢力は冷淡ないし無関心でした。
しかし、日本国内の一部フェミニスト勢力を中心としたハーグ拉致条約反対派が、その後も
親子断絶防止法や共同養育支援法に執拗に反対したことで、右翼勢力が反左翼活動としての共同親権運動に目を付けたという経緯が否定できません*11
ちなみに共同親権運動にすりよっている差別主義者のはすみとしこ氏は、離婚後共同親権には反対の立場です。理由は“離婚後共同親権にすれば離婚が増加するから”という非常に伝統的家族観に染まりきった保守的価値観によっています。

個人的には離婚後共同親権は、夫婦別姓同性婚と同じくリベラルが推進すべき案件だと思っていますので、私はリベラルとして離婚後共同親権に賛成しています。
リベラル側の論者がもっと積極的に離婚後共同親権のあり方を示して運動を主導すべきだと期待しているのですが、どうにも期待外れな論者が多くて困ります。
この問題に関して自家撞着を抱えがちなフェミニズムにはあまり期待してはいないのですが、それに一線をひける論者、あるいは撞着を解消するまで昇華したフェミニストがいても良いと思うのですけどね。

フェミニズムの自家撞着

フェミニズムの根本は男女平等であって育児にあたっても“男女が対等に担うべき”と言う思想になるはずですが、離婚した途端に“育児は女性が担って当たり前、男性は養育費だけ払えば良い”という男女平等に反した主張になってしまいがちです。
簡単に言うと、妻・母親という役割は軛でもあり特権でもあるという二面性を持っているわけです。フェミニズムの理想的にはこれらは最終的に解消されるべきなのですが、実際には二面性が同時に解消されるわけではなく、特権が解消されたのに軛だけ残るということが往々にして生じます。例えば、離婚後共同親権が完全に実現して共同養育になったとしても、女性の雇用状況が改善されなければ、単独の養育者として得ていた特権のみが消滅して、女性の不利益だけが残ります。あるいは、法的には共同親権・共同養育となっても、社会文化的に女性に“母親”としての役割が求められ続けるのであれば、やはりそれは男女平等とはいえないでしょう。
女性としての特権のみが解消され、女性としての負担が残るのであれば、賛成できない、というのがマーサ・ファインマンあたりが主張しているもので、ファインマンはそれ故に婚姻制度を解消すべきだと主張したりしています*12

とは言え、その場合主張すべきは離婚後共同親権の反対ではなく、離婚後共同親権の推進で取り残される女性の不利益をあわせて解消することの主張であるべきと私は思います。

共同親権運動に問題はないの?(単独親権・親子関係断絶は男性差別か?)

保守・右翼・差別主義者らとの関わりとは別に、別居親当事者の多くが父親という現状から、単独親権・親子関係断絶の問題を男性差別として短絡して批判している人も少なくありませんので、その辺も問題だと言えます。
まあ、日本国内の一部フェミニスト勢力が“離婚後共同親権を主張しているのは別居父だけ”といった論陣を張っていることもあり、離婚後共同親権反対派の矛先が“男性”に向いていることも否定はできず、男性差別だと解してしまう素地が存在しているのも確かなのですが・・・。

上記二つの勢力の対立構造の中で見落とされるのが、女性の別居親の存在です。一部フェミニスト勢力からは別居親女性の存在自体を無視され、離婚後単独親権を男性差別だと吹き上がる勢力に別居親女性が参加できるはずもなく、世間からは“女性が親権をとって当たり前なのに、親権を取れなかったのであれば、問題のある母親だったに違いない”という偏見にさらされ、まともに声を挙げることもできないまま“透明な存在”にされています。

共同親権賛成派も反対派も離婚後共同親権への賛否を男女の対立であるかのように主張するのではなく、問題の本質をとらえるべきです。

共同親権運動に問題はないの?(DVを刑事罰に問えば解決するのか?)

離婚後共同親権賛成派も、DVや虐待がある場合でも親権を与えろという主張はしていません。ですが“DVがあるなら刑事罰に問えば良い”と刑事罰に問えないDVは問題ないかのように主張する人もいます。
しかしながら刑事罰に問えるほどのDVは、暴行・傷害・脅迫・強制性交等といったレベルのものに限定され、DV防止法でも定義上は、「配偶者からの身体に対する暴力」(身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの)及び「(身体に対する暴力に)準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動」となっています。
身体的暴力は比較的証拠が残りやすく刑事事件化もしやすいと言えますが、精神的暴力の場合は身体的暴力に準ずるほどの心身に有害な影響を及ぼす場合に限定され、それ以下のレベルだと法の対象外です(脅迫や侮辱として刑事事件化できる可能性も無いではないでしょうが・・・)。
法を厳格化してDVを全て刑事罰に問うというのも問題です。
現実問題として、双方が殴りあったり、暴言を言い合ったりするレベルの喧嘩をする夫婦は少なくありませんが、それらを全て刑事事件として処理すべきかというとちょっと同意しかねます。暴行・暴言が一方的であったり、一方が明らかに不釣合いな負傷を負ったというのであればともかく、双方が同等にやりあっている状況では一旦引き離すと言う以上の介入が適切だとは思えません。
そういう場合は第三者を交えて冷静に話し合える場を作るべきで、昔であれば双方の親族を交えた家族会議的なもので対応したのでしょうが、現在では本来なら家庭裁判所の調停などが適切に利用されるべきであろうと思います。そこで双方が冷静に考えて離婚を選ばないのであれば、夫婦喧嘩あるいは一方の暴力が激化しないように当事者をカウンセリングなどにつなげていく制度が充実されるべきで、その辺が日本では非常に遅れているという印象を受けます。

もっとも離婚後共同親権反対派の主張にも問題があります。口論など双方がやりあっている状態であっても一方(多くは女性側)に対する精神的DVだと主張していたり、第三者的に見てDVとはいえないレベルのことをDVだと主張したり、単発的なエピソードを継続的なエピソードであるように主張したりするのをよく見かけます。“自分が嫌だと思ったら全てDV”という認識は自分の気持ちを整理する上では重要ですが、それを他者の権利を制限する根拠として用いるなら濫用に他なりません。
本来なら、“自分が嫌だと思った”行為に対して支援者や第三者に説明し、客観的に見てDVと言えるのであれば(要するに立証できれば)DVとして扱い、客観的にはDVとは言えないのであれば相手をDV加害者として非難することはせず、離婚したいという要望を第三者交えて相手に伝え調整するべきでしょう。場合によっては相手が態度を改める可能性もあるわけで、現状のように客観的にDVとは言えないものまで含めてDV扱いして相手を非難するやり方は、いたずらに対立を煽るもので問題だと言えます。

共同親権自体は悪くないと思うけど主張している非監護親たちが信用できないので賛成できない”という意見

こういう主張もちょいちょい見かけます。
まさにトーン・ポリシングですので、その指摘だけでも良いのですが、一応少し説明しておきます。

まず、現状で子どもとの関わりが著しく制限されている非監護親たちにとっては、一日ごとに子どもと過ごす時間が失われているわけで被害は現在進行形です。子どもの中の非監護親に対する記憶も日々薄れていくことに焦りを覚えるのは当たり前の話ですし、そうでなくてもネット上は非監護親をDV加害者とみなして侮辱する二次加害に溢れています。
そのような加害を現在進行形で受けている被害者が、強い態度で離婚後共同親権を求めること自体は責められるべきではないでしょう。

性被害や女性差別に対して被害者たちが強い口調で男性社会を攻撃する主張をしても、その態度を批判するのはトーン・ポリシングですよね。
同じように、離婚後共同親権を求める非監護親たちに対してその態度をもって批判するのはトーン・ポリシングです。

どちらか一方だけを“トーン・ポリシングするな”として、他方についてはそうしないのであれば、それはダブル・スタンダードに他なりません。

もう一点、離婚後共同親権賛成派のなかには、極右や歴史修正主義に親和的な人も確かにいます。そういう思想・主張に対しては、私は賛同しませんし、むしろ歴史修正主義的主張に対しては批判します。

ですが極右思想や歴史修正主義者であるからという理由で家族との関わりが制限されるべきかというと、それは違うと考えます。

家族と関わる権利は基本的に天与のものであって、なればこそ産まれた子どもは両親の手に委ねられるわけで、それは法律以前の自然権です。その自然権を制限できるのは、虐待やDVなどでそのままでは他者の人権が許容できない程度に損なわれる場合であって、それは刑法や児童福祉法児童虐待防止法、DV防止法などの法律によって規定されるべきものです。もちろん、元配偶者や成人した子どもには相手と関わることを拒否する自由はありますが、虐待やDVなどの事情がない限り、直接相手に拒否の意志表示を伝えるべきことであって、公的に相手の権利を制限することで拒否する自由を保護するべきではないということです。まして、子どもが未成年である場合、その子どもがいくら親を拒否したいという意思を持っていたとしても親には扶養する義務がありますから、虐待やDVなどの事情がない限り、子どもに関わる権利を制限するべきではないでしょう*13
法律によって制限することが認められてない範囲であるならば、たとえ、その人間が醜悪極まりない思想の持ち主であっても、その権利は認められなければならない、というのが天賦人権の考え方です。

“アイツは悪いやつだから、このくらいの人権を制限しても構わない”というのは、天賦人権的な考え方ではなく、どちらかと言えば自民党の国賦人権的な考え方に近いというほかありません。

リベラルであるならば、天賦人権の考え方に則って考えてほしいところです。

とりあえず

一応、論点や疑問点になっていそうなものについてざっと説明した感じです。
漏れがあれば、別途追加していくつもりです。

正直、この話題ではホント残念な思いをすることが度々あるんですよね。
チベットウイグル人権問題に日本の極右勢力や歴史修正主義勢力が関わっていることを否定する人はいないと思いますが、だからと言ってチベットウイグルの人権問題で全面的に中国政府の方を持つのか、と。少なくとも現在のリベラルでそんな人はまずいないと思うんですけどね。台湾や香港の問題でも同様。
私個人の意見としても、西側メディアによる中国批判には誇張や一部誤りもあるでしょうが、それを踏まえても中国政府のやり方は批判されるに値するとは思ってますからねぇ。

離婚後共同親権運動に差別主義者が紛れ込んでいるという情報だけで、この問題を深く知ろうともせずに軽率に共同親権反対の意見を開陳するリベラル側の論者を見たくはないんですよね。



*1:http://scopedog.hatenablog.com/entry/2019/12/07/120000THE UNEXPECTED LEGACY OF DIVORCE, Report of a 25-Year Study. Judith S. Wallerstein, PhD

*2:https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=1110

*3:http://scopedog.hatenablog.com/entry/20170521/1495380118https://blogos.com/article/361447/

*4:https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/dl/about-01.pdf

*5:2018年司法統計によると、面会交流事件総数11866件に対して、月1回以上の面会交流が認められたのは4673件

*6:http://scopedog.hatenablog.com/entry/2019/12/10/080000

*7:取り決めがないので、本来「不払い」という表現もどうかと思いますが。

*8:母子家庭で、母親の最終学歴別で養育費の取り決め率・受給率が最も低いのは、母親が中卒の場合で、高卒の場合がそれに続く。養育費算定表の増額や強制力強化が離婚後母子家庭の貧困の解消にあまり役に立たないと思われる理由 - 誰かの妄想・はてなブログ版

*9:https://www.mhlw.go.jp/www1/toukei/rikon_8/repo5.html

*10:https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/singi/toukei/meetings/kihon_56/siryou_1t.pdf

*11:http://scopedog.hatenablog.com/entry/2019/12/07/080000

*12:法的な家族というものがあるから、実態の監護関係とは別に母としての役割が担わされるという考え。

*13:子どもが親を嫌って家出した場合、その親には子どもを探す権利がないのかというとそんなことはありませんよね。嫌っている原因が虐待やDVであるとわかった場合に初めてその親の権利が制限されるべきでしょう。