慰安婦関連の記述・大江志乃夫氏「日本植民地探訪」

大江志乃夫氏の「日本植民地探訪 (新潮選書)」(新潮選書、1998)にある慰安婦関連の記述です。内容的にコンパクトにまとまっていて理解するに適しています。

(P126-127)
日本固有の軍事施設・慰安所
 第一次大戦以降の、大兵力による徴兵制軍隊をもってする長期戦において、第一線兵士の交代勤務による休暇制度は不可欠の制度となった。しかし、この制度を導入しなかったのが日本の軍隊であった。転勤・出張・新戦法教育などで後方の都市や内地と往復する機会がある将校とちがい、第一線勤務が長期にわたり、休暇制度もない日本の兵士たちは、いつの日のことともわからぬ未来の召集解除を夢みるだけで、明日をも知らぬ生命の危険に脅かされる日々を送らねばならなかったし、その精神的緊張からの束の間の解放の休暇さえ与えられなかった。兵士たちの気持は荒み、衝動的で陵辱的な強姦事件が多発した。
 一九三五年次の徴兵検査で現役兵として徴集され三六年一月一〇日に入営した三七年次の二年兵たちは、その年の七月一〇日に除隊帰休する予定であった。七月七日に盧溝橋事件が起こると八日夜、杉山元陸軍大臣は京都以西の師団の除隊の延期を命じた。彼らはおそらく兵器や軍服などの返納手続も終えており、九日は送別行事で暮れ、一〇日の午前中には平服に着がえて兵営の門を出る予定を、二日前に突然取り消され、逆に戦場へと駆り出される羽目になった。京都以西の現役師団で、一二月の南京攻略に加わった部隊に、熊本の第六師団、京都の第一六師団と、四国の第一一師団の一部があった。
 南京虐殺事件で最も悪名をとどろかせたのが京都の第一六師団であった。熊本の第六師団の評判もよくない。第一六師団は師団長が戦略単位の兵団を統率するだけの人格・器量の持主でなかったということも指摘されているが、日本が中国と戦争をはじめなければ、半年前に軍服を脱いで故郷で平和に家業に従事していたはずの兵士たちが、除隊直前に現役服務を延長されて戦地に送られ、多くの戦友たちの戦死に動揺して精神の均衡を失い、心が荒んで、強姦・虐殺・略奪の主人公となったのも故なしとしない。
 多発する強姦事件に頭を痛めた陸軍首脳が考えついたのが、兵士たちに交代で休暇を与えて前線の兵力を減少させ戦力を低下させることを避けるため、軍が組織的に売春婦を戦地に送り込んで前線兵士たちの欲求不満を解消するという、戦力的なロスも小さく、より安上がりな方策だった。こうして、世界に独特の軍事施設としての「特殊慰安所」が軍によって計画され、開設された。軍事施設ともなれば権力による強制が可能となる。内地の成年男子に強制徴兵制による兵役の義務がある以上、植民地の若年女子に慰安婦勤務の義務が課されても当然という、権力の論理がその背後にちらついている。
 なぜ、植民地の若年女子なのか、将来、内地出身の兵士の妻となり、未来の兵士の母となるべき内地の若年女子多数を慰安婦とすることは、直接に兵士たちの士気を落す結果となる。さればといって、職業的売春婦だけをもって慰安所を開設することは、人数も不足し、軍隊の戦力に影響するところが大きい性病問題をひろく軍隊内に持ち込む危険を伴う。だから、植民地の若年女子の慰安婦が必要だったのだ。
 慰安婦が従事させられたのはたんなる強制労働ではなく、たんなる売春でもない。それは役務の強制ではあったが、その役務そのものが公序良俗に反する行為であり、この行為の強制に労働の対価や商行為の概念を適用することは誤っている。役務の代償として個々の兵士が代金を払ったという主張は、正当な主張として成立しえない。彼らは慰安所に支払ったかもしれないが、慰安婦に直接に支払ったわけではないだろうし、まして支払った代償が軍票であれば、それは日本国家によってつくられたニセ札でしかなかった。
 これははっきり言って国家による犯罪行為である。したがって、補償と謝罪は国家の責任において、国家から直接に被害を受けた個々人にたいして、直接におこなわれなければならない。これから行く、トラック島やラバウルに、この種の軍事施設は多くあったし、この問題は考えざるをえなくなる。