戦記の行間

こういう記述があります。
歩兵第二百十八聯隊史 (1983年)

(P247)
 さらに翌十日(引用者註:1943年5月10日)、敗走の敵部隊が四百艘のジャンクで太平運河を下航中という直協機の通報で、田村大隊の各隊は白蚌口付近の堤防に展開して待ち構え、近接するや全火器を挙げてこれを殲滅した。ジャンクにはいずれも日の丸の旗が掲げていたが、一見して偽物と判る粗末な手製であった。

−いっとき、各隊の射撃がぱたっと熄んだ。近づいたジャンクに五つ六つの子供の姿があったからである。おろおろと船上を右に左に走り回っている。船頭の子供だったかも知れない。兵隊たちは子供に弱い。この舟が安全圏に去ってから再び猛射を始めた。(前田正夫氏*1−談)

心温まるエピソードと読めなくもありませんが、この記述は1943年5月10日、洞庭湖の安郷と三仙湖の中間地点での出来事です。そして、前田正夫氏とは歩兵第218連隊第3大隊第3機関銃中隊の中隊長で、当時針谷支隊麾下で戦闘に参加していました。日本側では江南殲滅作戦と呼ばれた作戦中の話で、廠窖虐殺事件が起きたまさにその時期の記述です。針谷支隊は、この廠窖虐殺事件の実行部隊の一つとされています。

江南殲滅作戦における日本軍による虐殺事件
廠窖虐殺事件


それを踏まえると、引用中のジャンクに乗っていたのは果たして中国兵だけだったのか、いささか疑問が湧いてきます。子供のくだりから考えると、日本軍に包囲され洞庭湖に逃げた難民らが乗ったジャンクであった可能性もありそうに思えますが、さてどうでしょうかね。

*1:針谷支隊 歩兵第218連隊第3大隊第3機関銃中隊中隊長 中尉