幕府山事件(1937年12月16日・17日)

実施部隊

(第13師団)山田支隊・歩兵第103旅団(山田栴二(やまだ せんじ)少将)
歩兵第65連隊(両角業作大佐)・第一大隊(田山芳雄少佐)ほか山砲兵第19連隊なども参加

事件発生場所

(16日)南京城北東 魚雷営附近(魚雷営の虐殺)
(17日)南京城北東幕府山北側 大湾子附近(大湾子事件)

事件発生日時

1937年12月16日〜17日

犠牲者数

中国軍捕虜(敗残兵・民間人) 約15000〜20000人

事件概要

山田支隊は、12月14日に烏龍山附近で捕虜にした敗残兵・民間人約15000人を上元門口より若干東(幕府山の南側)に収容した。その後も捕虜は増え、16日には17000人を超え、一説*1には二万人を超えると言われる。
12月15日に、山田支隊長は軍司令部に捕虜の扱いを問い合わせ、上海派遣軍からは殺害せよとの命令を受ける。翌16日から麾下の第一大隊(田山芳雄)に捕虜の虐殺を命じる。
16日の昼頃に収容所内で火災が発生したが、大きな混乱は生じず、16日夜、捕虜の一部約5000〜7000人(全体の3分の1)を幕府山北側の揚子江岸に連れ出し機関銃などで殺害した。*2

翌17日午前中、捕虜を縛り午後処刑場所への護送を開始、大湾子に集結させた。夕刻になって機関銃で捕虜を殺害し、その後死体に火をつけ生存者の有無を確認し銃剣で刺殺した
*3。この虐殺の際、機関銃の銃撃前に整理兵として捕虜の集団の中にいた日本兵が巻き添えになって死亡。さらに死体を刺殺して回っていた際に、生き残っていた捕虜に殺害された日本兵もいた。戦史叢書*4にある「日本軍も将校以下七名が戦死した。」がこれにあたる。

この事件は戦後、戦犯訴追を恐れた為か、田山元大隊長が元隊員を尋ね口止めされた*5。戦史叢書も”釈放目的での護送の際、捕虜のパニックにより暴動が起きたための偶発的な殺害”とし事実を隠蔽した。

考察

幕府山事件として知られる16日の魚雷営の虐殺、17日の大湾子事件の他に、17日にも魚雷営で虐殺があったという説もある。また、草鞋峡で18日に起きたとされる5.7万人の虐殺事件、燕子磯での5万人虐殺事件をあわせて幕府山事件と呼ばれうる。少なくともこれらを同一の事件とみなす主張が板倉氏などからなされたが、場所的には別個の事件と判断すべきであろう。

参照:

栗原利一資料集

山田支隊・山田栴二日記(「南京戦史資料集2」のみ表記)

◇十二月十四日 晴
『南京戦史資料集2』
他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る
 幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
 捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり、上元門外の三軒屋に泊す

◇十二月十五日 晴
『南京戦史資料集2』
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

◇十二月十六日 晴
『南京戦史資料集2』
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

◇十二月十七日 晴
『南京戦史資料集2』
 晴の入場式なり
 車にて南京市街、中山陵等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る
 仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る

◇十二月十八日 晴
『南京戦史資料集2』
捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す

◇十二月十九日 晴
『南京戦史資料集2』
捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ
軍、師団より補給つき日本米を食す
(下痢す)

http://www.geocities.jp/kk_nanking/butaibetu/yamada/SYamada.html

第65連隊・第八中隊長 遠藤高明中尉 陣中日記(1937年12月16日)*6
 捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しI(第一大隊)において射殺す。(略)

*1:渡辺寛『南京虐殺と日本軍』では、二万数千人とも。笠原「南京事件」P187

*2:http://aidu65.net/p1.html

*3:http://aidu65.net/p3.htmlhttp://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen6.html

*4:支那事変陸軍作戦<1>

*5:http://aidu65.net/p11.html

*6:南京事件笠原十九司岩波新書、2004/4/5 第10刷、P185 (『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』よりの引用として