河野談話はどこで“強制連行の有無”の問題へとすり替わったのか・1(木村幹氏の記事の問題点)

木村氏が続きを掲載しましたが、前回よりひどい内容です。
河野談話はどこで「連合国の戦後処理」を含む問題へとすり替わったのか――従軍慰安婦と河野談話をめぐるABC

さて、前回述べたように、河野談話を考える上で重要だったのは、その道筋が1992年1月初頭の朝日新聞の報道からはじまる1週間足らずの間に「十分な調査さえ行われることなく」決まってしまったことだった。
混乱した状況の中行われた首脳会談で、日本側は繰り返し謝罪を行う一方で、二つのことを約束している。すなわち、この問題の真相究明と何らかの「誠意を見せるための」措置の検討である。実は日本政府は朝日新聞の報道からわずか3日後の1992年1月14日、既に「補償の代替措置」を検討することを公にしていた。こうして、慰安婦問題に対するその後の展開、つまり、河野談話からアジア女性基金への流れは出来上がってしまう、ことになる。

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/kono-kato-danwa_b_5102825.html

1992年1月の日韓会談でも、日本側はそれまで同様の型どおりの「お詫び」と「反省」を表明しただけで別に日本政府の加害責任を明確に認めたわけではありません。「二つのことを約束」のうちの一つである「この問題の真相究明」は1990年5月から求められていたことで調査そのものは1990年中には一応開始しています。大仰に「混乱した状況の中行われた首脳会談で」交わされた約束と表現するにはずれています。「「補償の代替措置」を検討することを公にしていた」というのも、“法的責任は認めないが同情しているから”補償の“代替措置”を検討しているわけです。
この1992年1月の首脳会談時点で出来上がった流れとはむしろ、“日本軍の関与は認めるが責任は認めない”といった今に続く路線でしょうね。

首脳会談の後、日本政府は泥縄式に慰安婦問題に関する歴史的史料の発掘に取り組んだ。韓国政府に対して約束したからだけでなく、自らが行動するための歴史的根拠を確定しなければならないからである。こうして所蔵する史料をしらみ潰しに当たった日本政府は、1992年7月6日、127件の日本「政府の関与」を示す史料が発見された、との調査結果を公表する。とはいえ厄介だったのは、この時発表された史料の中に、当時の日韓両国世論が最も大きな関心を寄せていた問題、すなわち、慰安婦の動員過程における日本政府の直接的関与を含む史料は含まれていなかったことだった。日本政府は事態の沈静化を図るために、加藤紘一官房長官名にて談話を発表し、この中で加藤は再び「我々の気持ちを」示すための方法を「誠意をもって検討する」ことを約束する。しかしながら、日韓両国の世論はもはや収まらず、調査結果は袋だたきに遭うことになる。こうして事態はいったん、暗礁に乗り上げることになる。

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/kono-kato-danwa_b_5102825.html

繰り返しになりますが、日本政府は1990年中には史料の調査を開始していますので、1992年1月の日韓会談以降に「泥縄式に」「発掘に取り組んだ」と表現するのは明らかに間違っています。もっとも日本政府が意図的にサボタージュしてたというなら別ですが。
その意味で言えば、「自らが行動するための歴史的根拠を確定しなければならないから」「所蔵する史料をしらみ潰しに当たった」というのも変な話です。慰安婦問題における日本軍政府による組織的な責任を示す「歴史的根拠」を本気で求めるのなら「所蔵する史料」だけの調査ですみません。言うまでもなく“民間女性を本人の意思に関わりなく、法的根拠もないまま強制的に連れ去り、売春を強要せよ”などと書かれた文書など発生するはずがなく、それを調査するなら当時の関係者から聴取することで慰安婦制度の実態を解明する必要がありました。戦中に20代30代だった当事者は1990年当時、まだ70代80代で健在だった人も多かったはずです。慰安婦慰安所に関わった元軍医や主計将校、出入国を管理する外務省官僚や植民地政府の官僚などいくらでも聴取できる人はいたはずです。1990年当時の状況から協力を拒む人も多かったでしょうが、それでも相当の情報は得られたでしょう。しかし、日本政府はそれを十分にはやっていません。予算や人員の都合というのもあるのでしょうが、要するに日本政府は本気で調査するつもりがなかったというに尽きます。
「当時の日韓両国世論が最も大きな関心を寄せていた問題、すなわち、慰安婦の動員過程における日本政府の直接的関与を含む史料は含まれていなかった」も表現がおかしいです。1992年には既に訴訟を起こしていた金学順氏の事例では、そもそも動員過程での日本政府の直接的関与など問題視されていません。後年のことですが、1993年の報告書では「「詐欺、暴行、脅迫、権力濫用、その他一切の強制手段」による動員を強制連行であると」*1みなしています。要するに日本軍管理下の慰安所で売春を強要されたことが最大の問題であり、動員過程において日本軍政府の直接的な暴力があったかどうかは問題ではありませんでした*2

1992年7月6日の加藤談話が叩かれた理由

とりあえず加藤談話を読んでみましょう。

加藤内閣官房長官発表
平成4年7月6日
 朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦問題については、昨年12月より関係資料が保管されている可能性のある省庁において政府が同問題に関与していたかどうかについて調査を行ってきたところであるが、今般、その調査結果がまとまったので発表することとした。調査結果については配布してあるとおりであるが、私から要点をかいつまんで申し上げると、慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認められたということである。調査の具体的結果については、報告書に各資料の概要をまとめてあるので、それをお読み頂きたい。なお、詳しいことは後で内閣外政審議室から説明させるので、何か内容について御質問があれば、そこでお聞きいただきたい。
 政府としては、国籍、出身地の如何を問わず、いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。また、このような過ちを決して繰り返してはならないという深い反省と決意の下に立って、平和国家としての立場を堅持するとともに、未来に向けて新しい日韓関係及びその他のアジア諸国、地域との関係を構築すべく努力していきたい。
 この問題については、いろいろな方々のお話を聞くにつけ、誠に心の痛む思いがする。このような辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか、各方面の意見も聞きながら、誠意をもって検討していきたいと考えている。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kato.html

これを読んで、日本政府が自らの何の行為について謝罪しているかわかる人はいるでしょうか?
慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所慰安婦の街生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等」に日本政府が関与したことでしょうか?しかしこれらのことは「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦」に直接つながる話でもなく、間接的にすら関連が見出しにくいものばかりです*3
「いわゆる従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい。」というのは確かに謝罪しているように見えますが、「辛苦」の責任を認めたうえでの謝罪というより、自然災害の被害者に対して政府が謝罪しているかのような被害の発生そのものに日本は全く関与していないかのような文面になっています。
「辛酸をなめられた方々に対し、我々の気持ちをいかなる形で表すことができるのか」「誠意をもって検討していきたい」と言っていますが、ここはもう明らかに日本政府には責任はないが、“自然災害の被害者”に同情して善意でもって救済してあげようという形式になっています。
日本軍管理下の慰安所で売春を強要された被害者に対する日本政府の公式発言であることを考えれば、これが被害者に受け入れられないのはむしろ当然というほかありません。
(試しに、加藤談話を教団談話に置き換えたネタを書いたのでヒマなら読んでみてください。)

*1:http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20140310/1394384568

*2:もっとも、動員過程をどう呼ぶかについて日韓間で懸隔があったのも事実ですが、加害者・被害者・第三者の各視点での認識に違いがあるにもかかわらず不用意に立場の違う相手に適用したことによる問題と言えるでしょう。

*3:慰安婦制度に詳しい人が知識で補完すれば関連性を見出せるでしょうけど、普通は難しいでしょうね。