1992年1月日韓会談の過大評価(木村幹氏の記事の問題点)

「とりあえず謝っておけばどうにかなるだろう」から始まった
河野談話はどこで「連合国の戦後処理」を含む問題へとすり替わったのか
上記2つの木村幹氏の記事ですが、根幹となっているのは、1992年の吉見教授らによる軍関与の証拠発見報道の直後に行われた日韓会談で、日本側が狼狽して謝罪を繰り返してしまったから河野談話への道筋ができた、という認識です。

しかしながら、日韓会談に伴う晩餐会での挨拶・スピーチなどを見る限り、1992年1月の会談での宮沢首相が「もはやほとんど会談の体をなしていない状態」(木村幹*1)とは思えません。例えば、1992年1月の日韓会談に伴う晩餐会や政策演説の宮沢首相の発言中、「お詫び」や「反省」にあたる部分は以下の通りです。

[文書名] 大韓民国大統領盧泰愚閣下ご夫妻主催晩餐会での宮澤内閣総理大臣のスピーチ
[年月日] 1992年1月16日
 このような協力の基礎として,私は,両国間の信頼関係をこれまでにも増して確固たるものとしていくことが必要だと思います。信頼関係を支えるのは,相互理解であります。その際,私たち日本国民は,まずなによりも,過去の一時期,貴国国民が我が国の行為によって耐え難い苦しみと悲しみを体験された事実を想起し,反省する気持ちを忘ないようにしなければなりません。私は,総理として改めて貴国国民に対して反省お詫びの気持ちを申し述べたいと思います。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19920116.S1J.html

「反省」2回、「お詫び」1回、慰安婦問題に関する言及なし

[文書名] 宮澤喜一内閣総理大臣大韓民国訪問における政策演説(アジアのなか、世界のなかの日韓関係)
[年月日] 1992年1月17日
このような重要なパートナーシップの基礎として,私たちは,何よりも両国間の信頼関係を確固たるものとしなければなりません。我が国と貴国との関係で忘れてはならないのは,数千年にわたる交流のなかで,歴史上の一時期に,我が国が加害者であり,貴国がその被害者だったという事実であります。私は,この間,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて,ここに改めて,心からの反省の意とお詫びの気持ちを表明いたします。最近,いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は,このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/exdpm/19920117.S1J.html

「反省」1回、「お詫び」2回、うち慰安婦問題に関するもの「お詫び」1回

確かに「反省」と「お詫び」が述べられていますが、問題はこれは異例と言えるのかということです。この2年前、1990年5月にも日韓会談が行われています。

[文書名] 大韓民国大統領盧泰愚閣下ご夫妻歓迎晩餐会での海部内閣総理大臣の挨拶
[年月日] 1990年5月25日
 私は,大統領閣下をお迎えしたこの機会に,過去の一時期,朝鮮半島の方々が我が国の行為により耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことについて謙虚に反省し,率直にお詫びの気持を申し述べたいと存じます。
 我が国は,戦後,厳しい反省に立って平和国家の道を選択し,その後一貫して貴国をはじめ広く国際社会全体の信頼を回復することに努めてまいりましたが,私は,我が国は,今後ともこの姿勢を変えることなく,更にその努力を強めていかなければならないと考えます。日韓両国の悠久の善隣友好関係も,先ず我が国のかかる努力が貴国民に納得されてはじめて揺るがぬものとなるのでありましょう。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19900525.S1J.html

「反省」2回、「お詫び」1回

吉見教授らによる軍関与の証拠発見報道より1年以上前の1990年5月の時点でも、同じように「反省」と「お詫び」を述べています。
要は、民主化後韓国との外交において日本は、とりあえず「反省」と「お詫び」を表現しておけばよいというやり方を採っていた、ということです。この背景には1965年の日韓基本条約と請求権協定の存在により賠償問題は生じないという確信があったのは想像に難くありません。それでもタカ派からすれば相当な譲歩のつもりだったでしょうが。
日本政府による「反省」と「お詫び」の表明は、民主化後韓国を相手とする外交において常に韓国大統領の背後にいる民意に留意する必要が生じたための修辞に過ぎませんでした。実際、この「反省」と「お詫び」の表明には具体的な言及はほとんどなく、これを根拠に賠償という話にはなりえません。
1992年1月17日の宮沢首相の政策演説では慰安婦問題に触れられていますが、「私は,このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております」と同情と何に対してか曖昧な「お詫び」しか述べられていません。「このようなこと」とは具体的に何を指すのか、「心の痛むこと」が起きた責任は誰にあるのか、そういうことには全く言及していません。

こうしてみると木村氏が1992年1月の宮沢首相による日韓会談を「当時の日本政府は一種のパニックに陥った」「主要閣僚が「国の責任」に言及し、その勢いで首脳会談になだれ込んでしまう」「もはやほとんど会談の体をなしていない状態」と評しているのが的外れであることがわかります。
1992年1月の日韓会談に対し、日本政府は自身の責任について言及することなく形式上の「反省」と「お詫び」の表明だけというそれまでと同様のやり方で乗り切ったに過ぎません。

具体的な責任に言及していない*2以上、それ以降の日本政府の行動を拘束するような会談にはなりえませんでした。
木村氏の記事は、1992年1月の軍関与の証拠発見報道や日韓会談を過剰に重要視してみせることで、それが河野談話アジア女性基金の原因であり、現在の日韓関係の原因でさえもあるかのように誘導しています。それも記事全体のトーンから明らかに否定的な意味での誘導です。木村氏は当時の状況についてよく知っているはずですが、状況をやたら単純化し誤誘導しているように見受けられます。

ちなみに「自身の責任について言及することなく形式上の「反省」と「お詫び」の表明」というやり方はそのまま1992年7月の加藤談話で示されることになります。

*1:http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html

*2:木村氏は1992年1月の会談で慰安婦「問題の真相究明と何らかの「誠意を見せるための」措置の検討」を約束した、と書いていますが、真相究明は1990年から求められており形式上とは言え日本政府もそれを実施中でしたし、「「誠意を見せるための」措置」というのもそれはつまり日本政府の責任ではないが、善意として救済するという意味合いのものでしかありませんでした。この約束が日本政府の行動を拘束したとはとても言えません。