前記事を踏まえて木村氏の「慰安婦問題は「とりあえず謝っておけばどうにかなるだろう」から始まった----従軍慰安婦と河野談話をめぐるABC」と言う記事を見るとおかしな点がいくつも出てきます。
河野談話が出されるに至る経緯を理解するためには、1992年1月11日の「慰安所への軍関与示す資料」という表題の朝日新聞の報道にまでさかのぼらなければならない。ここで重要なのは、少なくとも論理的には「軍関与」=「強制連行」でもなければ、「軍関与」=「日本政府の責任」でもないにもかかわらず、何故にこの報道が重要視されたか、である。
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html
それはこの報道の1カ月ほど前、当時官房長官を務めていた加藤紘一が「(慰安婦問題に対して)政府が関与したという資料は見つかっていない」という発言を行っていたからである。つまり、新資料の発見は、この加藤の発言を見事にひっくり返す形になったわけであり、だからこそ大きな衝撃を与えたのだ。
まず、この部分です。
1991年12月の加藤発言以前に、1990年6月から日本政府は一貫して「政府が関与した記録がない」と繰り返しています。そして慰安婦問題が日韓間で持ち上がる以前には慰安婦動員にあたって「軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われます」(1968年4月26日衆議院社会労働委員会、厚生省実本博次援護局長発言)と認めていましたにも関わらず、問題が持ち上がった途端、「政府が関与した記録がない」と否定し始めたという前段があります。
実際問題として、慰安婦制度に日本政府が関与していないなどというのは当時においてすら誰も信じていなかったでしょう。だからこそ、民間研究者によって日本政府関与の動かぬ証拠が提示されて大騒ぎになったのです。
別に加藤長官の1991年12月の発言が突発的だったわけじゃありません。「見事にひっくり返す形になった」のは「この加藤の発言」だけでなく、それまでの日本政府の見解だったからこそ大きな衝撃を与えたのです。
当時の日本政府にとって厄介だったのは、この報道が、予定されていた日韓首脳会談の開催されるわずか5日前に行われたことだった。首脳会談を前にして、突如としてこれまでの慰安婦問題を巡る前提が崩れたことにより、当時の日本政府は一種のパニックに陥った。すなわち、発言を行った加藤官房長官や渡辺美智雄外務大臣(渡辺喜美「みんなの党」党首の父親)をはじめとした、主要閣僚が「国の責任」に言及し、その勢いで首脳会談になだれ込んでしまう。
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html
当時の毎日新聞の記事の内容にそって数えるなら、首脳会談を前後するわずか3日の間に宮沢喜一は13回も「お詫び」や「反省」を繰り返している。しかもそのうち8回はわずか22分(3分に1回以上の計算になる)の間に行われたというから、もはやほとんど会談の体をなしていない状態であったろう。首脳会談における一国の首脳の謝罪の世界記録としてギネスブックに申請してもよいのではないかと思うほどである。
吉見教授の発見に日本政府が動揺したのは確かでしょうが、木村氏のこの記述はいささか大げさに思えます。この1992年1月の日韓首脳会談で日本側が慰安婦問題での法的責任まで認める発言が飛び出したというならともかく、「お詫び」や「反省」などの連発ならそれまでの日本政府の路線と変わりません。例えば1990年5月の日韓首脳会談でも当時の海部首相は「お詫び」や「反省」を繰り返しています。
118 - 参 - 予算委員会 - 19号
平成2年6月6日
○国務大臣(海部俊樹君) 先般、盧泰愚大統領との首脳会談におきましても、過去の我が国の行為によって耐えがたい苦しみや痛みを与えたという歴史の経緯を踏まえて、それを深く反省して、私は率直に日本の過去の歴史というものに対しての反省の意を表明しました。盧泰愚大統領はそれについて、正しい認識をしていただくことを評価し、その反省に感謝すると言われまして、それにおいて過去の歴史に起因する問題には区切りをつけて、近くて近い隣人としてアジアのためのよきパートナーになろう、こう言われましたので、私はその後の記者会見においても、そのためには日本側も誠意を持っていろいろな問題については努力をしますということを申し上げた。そして首脳会談においていろいろ具体的な問題がございました。時間がかかりますから一々御報告はいたしませんけれども、今問題になっておる問題につきましても、政府はできる限り各省庁協力をして、どのようなことであったのかという調査を早急にいたして御報告をいたしたいと思います。
責任を認めない範囲での同情や「お詫び」や「反省」程度ならいくらでも連発して構わないというのが、当時の日本政府の思考回路だったと言う方が正確でしょう*1。
ちなみに1992年1月17日の「宮澤喜一内閣総理大臣の大韓民国訪問における政策演説」で慰安婦問題に触れているのは下記一箇所のみで、共同記者会見では言及されてもいません。
最近,いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は,このようなことは実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/exdpm/19920117.S1J.html
「「既に謝罪してしまった事実」に対する「後始末」の性格」
重要なことは、こうしてその後作られることになる河野談話が、「既に謝罪してしまった事実」に対する「後始末」の性格を有していたことだ。そして更に問題だったのは、この時点における日本政府は、慰安婦に補償するつもりがなかったのみならず、そもそも自分たちが「何に対して謝罪しているのか」さえ明確に意識していなかったことである。
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html
「「既に謝罪してしまった事実」に対する「後始末」の性格」自体は全く否定できるものではありません。慰安婦問題に関して言えば、そもそも日本側に反論の余地などなく植民地支配全般に関する「お詫び」と同じ出発点に立つ以上、河野談話が「「後始末」の性格」を持つと言うのもある意味では間違っていません。しかしながら「自分たちが「何に対して謝罪しているのか」さえ明確に意識していなかった」というのは、いくらなんでも日本政府を甘く見すぎです。1992年1月17日、軍関与の証拠発表から1週間しか経っていない時期ですら宮沢首相は慰安婦問題について「実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております」と責任を曖昧にしたままお茶を濁しています。法的責任や補償を避けるために曖昧にしていると解釈する方が妥当でしょう。
というより、1992年1月の日韓会談時点で明確に謝罪したのなら、慰安婦問題はそこで終わってますよ*2。
既に述べたように、この首脳会談は朝日新聞の報道からわずか5日後に開かれており、日本政府がこの首脳会談を前にして慰安婦問題に関する歴史史料を整理することなどとうてい不可能だった。状況がよくわかっていないにもかかわらず、「取りあえず謝っておけば何とかなるだろう」というのが当時の日本政府の姿勢だった、と言っても大きな間違いはないであろう。
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html
「「取りあえず謝っておけば何とかなるだろう」というのが当時の日本政府の姿勢だった」というのは確かですが、“責任の所在を曖昧にしたまま”という条件をつけるべきですね。したがって「状況がよくわかっていない」などということはありません。
しかしながら、謝罪を得た韓国政府は勢いづき、これまでの姿勢を一変させて日本政府にこの問題に対する法的補償を要求することになる。それまでの韓国政府は慰安婦問題についても日韓基本条約で解決済みである、という立場だったから、この出来事は、日本政府にとって青天の霹靂だった。
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html
この部分は、一体何の事実をもって木村氏が述べているのかわかりません。韓国政府が対応を変えたとすれば、それは軍関与の証拠が出てきたからで、宮沢首相に謝罪されたためではないでしょう。「日本政府にとって青天の霹靂だった」というのも、それまで政府の関与を否定してきた日本政府が今さらという感が強く、果たしてそのように認識したか疑問です。
こうして日本政府は状況に押される形で事後処理的に調査を行い、事態の収拾を図ることになる。だが、本当に厄介なのはここからだった。なぜなら肝心の「国の(法的)責任」を認める証拠が見つからなかったのみならず、そもそもこの時点では「慰安婦問題を巡る国の(法的)責任」が何であるかさえ明確ではなかったからである。
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html
ここもおかしな部分です。日本政府は軍関与が明らかになった1992年1月の1年以上前の1990年5月に韓国の団体から6月には日本の国会議員から真相究明を求められています。省庁単位では1990年中には調査がはじまっていますし、内閣外政審議室が調査を担当した1991年7月からでも半年は経っています。「日本政府は状況に押される形で事後処理的に調査を行」ったのだとすれば、それまで日本政府は調査を意図的にサボタージュしてたということにしかなりません。要するに1990年から1991年の間、日本政府はろくな調査を行わなかったということで、その結果、民間研究者から出された軍関与の証拠にうろたえることになったに過ぎません。
「「慰安婦問題を巡る国の(法的)責任」が何であるかさえ明確ではなかった」と言う点に関しては、軍関与の証拠が明るみに出てもなお、日本政府は国の責任を明確にすることを避けたに過ぎません。
国が管理したシステムの中で人身売買と強制売春が横行し、それを少なくとも8年間放置したという事実だけで十分に国の法的責任があるでしょうに。
当然のことながら、このような混乱した日本政府の対応は、韓国政府のみならず、日本社会や政治家たちの間にも深い不信感をもたらすことになる。一言で言えば、河野談話に至る道は、はじめから深い傷を負っていたのである。
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html
この一文に関しては全くその通りだと思います。