井上武史氏の意見に対するいくつかの疑問

報道ステーションが行ったアンケートのうち、九州大学大学院の井上武史准教授が集団的自衛権行使を合憲だとして寄せたコメントの件。

集団的自衛権の行使について明確な禁止規定は存在しない」

憲法には、集団的自衛権の行使について明確な禁止規定は存在しない。それゆえ、集団的自衛権の行使を明らかに違憲と断定する根拠は見いだせない。

http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/25.html

集団的自衛権の行使とはつまるところ日本が攻撃を受けていないが、攻撃を受けている国の自衛権行使に日本が武力をもって協力するというですから、普通に憲法9条で禁止されていると解釈すべきだと思いますけどね。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM

だって日本以外の国同士での争いなわけですから、まさに「国際紛争」であってこれを「解決する手段として」「武力による威嚇又は武力の行使」は放棄するって書いてありますからね。
個別的自衛権を認める論者でさえ、日本自身が攻撃されたときの自衛戦争は国を守る上での最低限の防衛であって「国際紛争を解決する手段として」の武力行使ではないから認められるっている理路だと思うのですが*1
集団的自衛権の行使が禁止されていないとすれば、その集団的自衛権の行使とは、国際紛争を解決する手段でないか、あるいは戦争でも武力行使でもないことになりますが、そんなものは存在するのでしょうか。

まず、この点は理解できないところでした。

「「事情の変更」により解釈変更が可能」という主張

前段の「集団的自衛権の行使が明確に憲法で禁止されていない」と言う主張を認めたと仮定して、ですが。

集団的自衛権の行使禁止は政府が自らの憲法解釈によって設定したものであるから、その後に「事情の変更」が認められれば、かつての自らの解釈を変更して禁止を解除することは、法理論的に可能である(最高裁が「判例変更」を行うのと同じ)。

http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/25.html

あくまでも集団的自衛権の行使が明確に憲法で禁止されていないという仮定の下でなら、この部分は一応同意できなくはありません。

ただ、政府が憲法解釈をすること自体に正当性があるかどうか疑問はあります。
憲法を政府と国民の間での契約とみなすと、契約内容の解釈に当事者間で齟齬があればそのすり合わせが必要になります。一方が契約条項に対する解釈を表明した場合、他方の当事者にはその解釈に対し異議を唱える機会が与えれなければ、その契約解釈の正当性は認められるべきではないでしょう。
政府が憲法解釈をした場合も、他方の当事者である国民側から異議を申し立てる機会が与えられなければ、その憲法解釈の正当性は認められるべきではないと思います。国民は憲法解釈に異議があるなら次の選挙で政権交代させればいい、という反論もあり得ますが、仮に選挙でその憲法解釈を行った政府が政権を失ったとしても、憲法解釈が自動的に無効になるわけではありませんので反論としては成立しません。
例えば、政府が新たな憲法解釈をした場合は、必ず国民投票でその信を問う、という制度になっているなら、政府が憲法解釈をすることに正当性があると思いますけど。

とりあえずその点は置いておいて、「「事情の変更」が認められれば」という条件ですが、これは確かに同意できます。ただし、この「事情の変更」は相当に厳しい条件になりますが。

「事情の変更」

そこで問題の焦点は、集団的自衛権行使を禁止する政府見解が出された1972年と現在との間に、解釈変更を基礎づけるような「事情の変更」が認められるかであるが、約40年の間に生じた国際情勢や軍事バランスの変化に鑑みれば、おそらく認められるだろう。

http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/25.html

1972年からの40年間における「事情の変更」では駄目です。なぜなら、政府はその後も集団的自衛権違憲だという答弁を繰り返してきましたから。直近では2001年に小泉政権集団的自衛権違憲と答弁していますから「事情の変更」は最低でも2001年以降の15年間での変化で説明できなければなりません。
2001年時点で政府自身が違憲だとみなしていた集団的自衛権が、合憲になる解釈変更を正当化できるほどの「事情の変更」がこの15年間で生じたかという点が問題で、そこは井上氏が間違っていると思います。
仮に1972年以降、「事情の変更」を構成する要素が積み重ねられていって2001年以降になって閾値を超えたという判断をするにしても、どのような「事情の変更」が閾値を超える最後のひと押しになったのかを明らかにする必要があるでしょう。
ここでは井上氏は「約40年の間に生じた国際情勢や軍事バランスの変化」という漠然とした文言でしか説明しておりませんので、これだけでは「解釈変更を基礎づけるような「事情の変更」が認められる」という主張に同意は出来ません。別途説明があるなら、是非読んでみたいところです。

なお、主に井上氏のコメントに同意しているネット上の論者に対してですが、法律上の「事情の変更」って簡単に認められるものではないことを指摘しておきたいですね。
契約行為は合意内容について誠実に履行することを求めるものであって、後になって事情が変わったからと簡単に契約内容が変更されるようでは、契約社会が成り立たなくなりますから。信義則という考え方から一度合意した内容は一方の都合だけで変えることが出来ないのが基本です。その例外として認められる「事情の変更」は、“著しい”事情の変更があり、契約時には“予見できず”、“当事者の責任で生じた事由ではなく”、契約内容をそのままにした場合に“著しく不合理な結果”を招く場合、とされています。
こういった視点で、集団的自衛権行使が合憲とされるに値するほどの「事情の変更」を丁寧に説明しているところは見たことがありません。知っている方は教えてください。

ちなみに井上氏は憲法解釈の変更の類似例として判例変更を挙げていますが、例えば、昭和30年の芸娼妓契約の前借金無効の判決は大正時代の大審院判決の判例を変更した事例ですが、判例変更の背景には新憲法に変わったという大きな事情変更があり、それ以外にも同様の下級審判決の積み重ねがあったわけです*2
このような事例に匹敵するような「事情の変更」が示されなければ、「おそらく認められるだろう」という意見においそれと首肯できるものではありません。

これ以降は、法律的な話というより井上氏の政治的な意見だと思いますので、ここでは取り上げません。

*1:だから極端な話、形勢逆転しても日本が侵略国領土にまで反撃して攻め込むのは「国際紛争を解決する手段として」の武力行使だから憲法違反という解釈もあり得るわけで

*2:http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/16082/1/17(4)_p1-55.pdf