南京事件否定論の原形・東京裁判弁護側弁駁

今年は南京事件が発生した1937年12月13日(南京陥落)から80年、南京軍事法廷判決から70年、東京裁判判決から69年になります*1
今もなお、南京事件否定論を流布する輩は多いんですが、その否定論者がいつからいるかというと、東京裁判の時にすでに現われ現在の否定論とほぼ同じロジックが確立されています。否定論者は70年間何の進歩もなく、同じことを繰り返すだけということです。

南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか (平凡社新書)」より。

(P77-82)

4 否定論の原点になった弁護側の主張

 東京裁判における心理過程のなかで、弁護団側の当然の任務として、検察側の立証に疑義をはさみ反論を展開した。そのまとめといえるのが、弁護側最終弁論で弁護側が法廷に提出した付属書「南京事件に関する検察側証拠に対する弁駁書」である。冒頭に「本書は、南京事件に関し検察側より提出せられたる書証および人証につき、法廷がその証拠価値を判定せらるる使宜のため、弁護人としての意見を弁明するものなり」と記されているように、すでに南京事件の事実は認めていた弁護団が、前掲「パル判決書」にいう「検察側の証拠にたいして悪くいうことのできることがらをすべて」開陳したものである。つまり、南京事件の事実は認めるが、被害者側の証言に疑義をはさみ、その価値を低めることで、被害者側が強調するほど大規模で深刻なものではなかったと思わせようとしたのである。
 このときの弁護側の弁駁の主張の少なからぬものが、現在では南京事件そのものを否定するための根拠につかわれている。南京事件否定論者たりは、すでに東京裁判の審理において否定された弁護側の主張を相も変わらず受け売りしているのである。東京裁判における弁護側の論点が現在の南京事件否定論の原点になっていることを以下に事例をあげて指摘しておきたい。
 (1)証人の証言は伝聞によるもので直接現場を目撃したものではない。
 ジョン・G・マギーが多数の不法行為の存在を証言したが、本人が現実に目撃した事件は殺人事件一、強姦事件二、強盗事件二、計五件にすぎず、他の事実はすべて想像または伝聞である、というものである。
 ブルックス弁護人が直接犯行中の現場を見たのか繰り返し尋問したのにたいし、マギーは犯罪進行中を目撃したのは五件であると厳密に答えたのである。そしてマギーは、他の中国人被害者、目撃者の報告は南京安全区国際委員会書記のスマイスが報告者の名前も記入したものであり、自分で見たものもあり、被害報告は単なる伝聞ではないと答えた。弁護人の尋問は、殺人、強姦についても犯行中の瞬間を目撃したものでなければ、他は伝聞で信憑性がないかのような極端なもので、中国人の被害届け、被害報告は信用できないという立場に立つものであり、このような弁護人の尋問にたいして裁判長から証人の信用性を弁駁するに足りないと注意されている。
 (2)中国軍も退却にさいして殺人、略奪、放火、強姦をおこなった。死体の存在、略奪の結果だけを見て、これを日本軍の行為と断定することはできない。
 松井石根担当の伊藤清弁護人が許伝音証人の証言にたいして「支那軍は都市を占領したり、また敗れて都市から逃げるときには、放火・強姦・略奪などをする習慣があることを知っていますか」と許伝音が目撃した被害状況は実は中国兵の仕業ではないのかと質問したのにたいし、彼は、日本軍が南京を占領する以前、中国兵がたくさん城内にいたが何も問題はなかった、自分が証言している残虐事件は日本軍が占領して以後に発生したものであると反論した。
 さらに伊藤弁護人は、一九二七年に国民革命軍が南京を占領したときに発生した南京事件を取り上げて、中国兵は都市に入ったり、逃げたりするときに略奪、強姦をする習慣があるのを知っているかと質問、これにたいして、許は伊藤の話は事実とは違うが数件の暴行があったのは知っていると答えたうえで、日本軍が南京を占領する前まで中国兵がいたが、日本軍のような残虐行為はけっしてやらなかった、残虐行為は中国兵がいなくなって日本軍が占領した後に起こったのだと反論している。反論された伊藤弁護人は、自分は中国兵のことを聞いているのに日本兵のことをいうだけだ、と匙を投げている。
 (3)中国兵は便衣兵(民間服を着た兵士)、便衣隊となって南京安全区ないし南京城内に潜伏していたので、日本軍は便衣兵、便衣隊の掃討、処刑をおこなったので不法殺害ではない。
 伊藤弁護人が許伝音にたいし、難民収容所に軍人は一人もいなかったのかと質問したのにたいして、許は、難民収容所には武装したり武器をもった兵隊が一人もいなかったと断言できる、もしも兵隊を難民収容所に入れる場合は、武装解除をした後に許可した、と答えた。さらに伊藤清弁護人が許伝音にたいして、「支那兵は戦いに敗れると逃げる、逃げ損なうと武器を匿し、軍服を脱いで普通の服を着て民家に潜伏しておって、そうして隙をみて敵軍に襲いかかる、すなわち便衣隊というものになることをご存知ですか」と質問、これにたいして許証人は、中国兵が軍服を脱ぎ、武器を棄てた場合は便衣隊員とはみなさないで普通の非戦闘員として扱っている。反論され、それ以上質問できなくなった伊藤弁護人が「この証人からこれ以上真実を訊きだすことができませぬから遺憾ながらこれで私の訊問を終ります」と匙を投げている。
 ブルックス弁護人がマギーに、「便衣を着ていた中国兵は、スパイ行為をしたり、サボタージュをしたり、日本の歩哨に危害を与えるとかしなかったか」と質問したのにたいし、マギーは「南京城市が占領されたあとに、南京市内ではわずか一つの事件といえどもそのようなことがあったとは聞いておりませぬ」と明確に答えている。
 検察側最終論告では、「弁護側は、武器を棄てて市民に変装したという事実を立証しようと試みました。このことが真実であってもなくても、同市陥落後は武力抵抗はなかったので、冷静のままで殺戮したことが犯罪であり、そのことにたいしていかなる根拠からも正当たることを証することができぬということを、証拠が明らかにしております」と明快に反論している。
 (4)中国の慈善団体による埋葬資料のなかには、南京戦の戦闘で戦死した兵士の死体が集められて埋葬されたものがふくまれており、虐殺被害者数に入れることはできない。
 検察側最終論告では、埋葬隊の資料は、戦闘のあった場所ではなく、虐殺のおこなわれた場所と照合し、兵士でないことを確認して死体を埋葬した資料である、と反論している。
 (5)日本軍が南京を攻撃する直前の南京市内の住民は二〇万人にはならない。二〇万人虐殺というのは、誇大無稽の数字である。
南京事件に関する検察側証拠に対する弁曝書」は「日本軍入城後の集団屠殺二〇余万人と称するも、当時、南京市内の住民が二〇万人前後なりしことは検察側証拠によるも明らか」なので城内の住民が全部虐殺されたことになる、と述べ、犠牲者総数推定の根拠になった埋葬隊の資料が誇大、誇張、杜撰で作為的な宣伝的なものであると否定している。
 同弁駁書は最後に提出されたものなので検察側からの反論はないが、弁護側があげた検察側証拠というのは、アメリカ大使館報告のエスピー報告(一九三八年一月二五日)といわれるもので、南京は人口一〇〇万と見積もられていたが、日本軍占領下に二〇万人から二五万人が残留し、主として難民収容所で避難生活を送っているという内容。もう一つは南京安全区国際委員会委員長でドイツ人のジョン・ラーベによる上海ドイツ総領事宛書簡(一九三八年一月一四日付)で、安全区内に二〇万市民が生活していると述べているもの。大虐殺を免れた住民が二〇万人から二五万人という数字なのにそれを虐殺前の南京の人口と曲解して利用したものである。
(引用者注:原書内で丸付き数字になっている部分はカッコ内数字に改めた)