「歴史の欠片「公文書」を解読して本当の近現代史を知りたい 」について、やろうとしていること自体は悪くないし支持もできるんですが、伊藤隆氏の名*1や「対歴史戦の武器開発プロジェクトが進展中」などという宣伝を見ると一抹以上の懸念が払拭できません。
日本には膨大な数の公文書が存在します。歴史を紐解くために、当時書かれた公文書を解読し、文章化します。そこにある背景や因果関係を探して、1つのHPに集約します。どうか応援いただけないでしょうか?
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古文書を現代語に直訳するだけなら、対象の取捨選択*2以外には恣意が入らないのですけど、それはそれで文書の作成された時代背景などを知らないと意味が理解できないことが頻々とありますから背景の説明・注釈は避けようがありません。そこに恣意性が入り込む可能性が無視できなかったりします。「そこにある背景や因果関係を探して、1つのHPに集約」という作業は必要ではありますが、そこの客観性の担保が気になります。
一方でこうも書かれています。
なぜ、歴史は変わるのか? 歴史は、さまざまな史料を分析して過去の出来事を研究するものです。新たな史料が見つかったり、新しい研究結果が発表されたりして、それまで常識と思われていた歴史がひっくり返るのは、よくあることです。さらにそれに解釈や説明が入ると、どれが本当かわからなくなります。
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「解釈や説明」に対して否定的な記載がされていますが、「そこにある背景や因果関係を探」すという作業と矛盾しているように感じられます。
邪推するなら、“「解釈や説明」を排した”という客観性を偽装しつつ、「そこにある背景や因果関係を探」すという形で恣意性を混入させようとしているのかなとも思えます。
実際邪推するに足る懸念はいくつかあります。
「公文書は事実の記録」?
公文書は事実の記録です。昔から人々は当時の言葉で記録を取り、後世に残していました。そんな貴重な公文書は、現在国立公文書館等で一般公開されています。また、アジア歴史資料センターでインターネット公開されています。
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公文書は“公式の記録”ではありますが、事実の記録じゃありません。大本営発表は公文書ですが、その内容は必ずしも事実ではありませんよね?
したがって、公文書の読み解きにあたっては政府など公文書の作成者の思惑が働いていることを前提とするのが当然であって、「公文書は事実の記録」などという素朴な信仰は理解にあたって有害でしょう。
「明治・大正や昭和初期の文書は旧字体や歴史的仮名遣で書かれていて、ほとんど読めず意味不明」?
現在、保管されている公文書の数は国立公文書館だけでも100万冊以上あり、ほとんど翻訳されていないのが現状です。どうにかして公文書の解読を行い、根拠に基づいた歴史を伝えていきたい。そう思うようになりました。しかし見られるのは原典のみで、中でも明治・大正や昭和初期の文書は旧字体や歴史的仮名遣で書かれていて、ほとんど読めず意味不明なんです。
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江戸時代や明治初期くらいならともかく、近現代の公文書が「ほとんど読めず意味不明」というのはさすがに読解力の方に問題がありそうな気がします。
もちろん、手書きの公文書で達筆すぎたり逆に字が汚すぎて読みにくかったりというのはありますが、文字の判読さえできれば「ほとんど読めず意味不明」とは言えないと思うんですけどね・・・。
浮かび上がった「1つの事実」がそれ?
読み進めた公文書。そこから1つの事実が浮かび上がりました。
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みなさまは「帝国大学」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。1886年(明治19年)の帝国大学令制定によってできた最上位の国立高等教育機関・研究機関です。1897年(明治30年)の京都帝国大学(現在の京大)設置に伴い「東京帝国大学(現在の東大)」と改称されました。この帝国大学令が制定されたときの内閣総理大臣(初代)が伊藤博文です。
こうしてできた帝国大学は最終的に9つ設置されました。そのうち2つが外地(現在の外国)にあったことをご存知ですか? それは、京城(ソウル)と台北(タイペイ)です。
さらにそれらは6番目・7番目(1924年・大正13年と1928年・昭和3年)に設立されており、大阪(いまの阪大)や名古屋(いまの名大)より早く創られていたのです。この事実は意外に知られていません。かなり細かい歴史年表でなければ、項目すら載っていません。
この程度の内容なら公文書を紐解く必要すらありません。多分、“主張”したいのは以下の部分でしょう。
京城帝国大学は1924年(大正13年)5月1日の勅命(天皇陛下の命令)で設置されました。その直前の4月30日に、枢密院(当時の天皇の諮問機関)で行われた会議の議事録が残されています。
赤線部<活字化>
而シテ此ノ綜合制官立大學ハ其ノ實質ニ於テモ形式ニ於テモ内地ノ帝國大學令ニ依ル帝國大學ニ之ヲ匹儔セシメ成ルヘク此ノ兩者ノ間ニ差別ヲ存セサルコトhttps://readyfor.jp/projects/kingendaishi赤線部<現代文訳>
そして、この総合制官立大学は、実質的にも形式的にも内地(現在の日本国内)の帝国大学令による帝国大学に匹敵し、なるべく両者に差がないようにすること。
明示的に主張してはいませんが、要するに“日本は植民地朝鮮に対して差別しなかった”と示唆したいのでしょうね。
ただですね、画像ファイルを見てもわかりますけど、「此ノ兩者ノ間ニ差別ヲ存セサルコト」で終わってないんですよね、この文章。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03033395400京城帝国大学ニ関スル件
(略)
而シテ此ノ綜合制官立大学ハ其ノ実質ニ於テモ形式ニ於テモ内地ノ帝国大学令ニ依ル帝国大学ニ之ヲ匹儔セシメ成ルヘク此ノ両者ノ間ニ差別ヲ存セサルコト朝鮮統治ノ大局ヨリ見テ策ノ得タルモノナルカ故ニ之ヲ京城帝国大学ト称シ内地ノ帝国大学令ハ大学令ト同シク当然朝鮮ニ施行セラルルモノニ非サルガ故ニ別ニ勅令ヲ以テ本大学ニ関シテハ総テ内地ノ帝国大学令ノ規定ニ準拠シ但同令所定ノ文部大臣ノ職務ハ朝鮮総督ヲシテ之ヲ行ハシムル旨ヲ定メムトス(略)
つまり「両者に差がないようにすること」が朝鮮統治の大局上有利な策であるという認識であったわけです。勅令を使ったのは、別に天皇の恩恵とか配慮とかではなく、植民地朝鮮には日本国内の法が当然に適用されるわけではないので、勅令を使って内地のみ適用の帝国大学令に準拠せよとしたわけです。つまり植民地支配という実態があるために、本来なら帝国大学令ではなく朝鮮教育令に基づいた学校しか作れないわけです。“日本は植民地朝鮮に対して差別しなかった”のなら、そもそも総督政治を止めるべきだったわけですが、そうはせずに勅令という姑息な対応をとったわけです。
「朝鮮統治ノ大局」
さてでは、この「朝鮮統治ノ大局」とは何なのか、という点についてはこの公文書だけではわかりません。
そこで1924年という時期が重要になってきます。
1919年に第一次世界大戦が終了するわけですが、その前年にアメリカ大統領ウィルソンが提唱した14か条の平和原則に「植民地問題の公正解決」というものがあり、また1919年3月に植民地朝鮮で大規模な独立運動が発生したこともあり、日本の朝鮮支配に対する国際社会の視線が厳しくなっていました。またこの頃、日系移民問題を抱えていた日本は人種差別反対のキャンペーンを貼り欧米に圧力をかけていますが、欧米はその反論として日本の朝鮮政策を引き合いに出し移民制限を正当化しています。
新聞記事文庫 移民および植民(14-149)
大阪毎日新聞 1924.4.19(大正13)
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『重大なる結果』につき埴原大使釈明せん
(略)
国務卿何処迄も大使を擁護す
日本の制限も同様に過酷と米機関紙説く
【上海特電十八日発】十八日の米国機関新聞上海チャイナ・プレッス紙は「米国移民と日本」と題して左の様な論説を掲げた
今回米国両院を通過した新移民法案は欧洲の移民をも制限するもので且日米紳士協約の廃止を意味する条項をも含めるものである日本が白人と同じく比率制限移民団の列に這入り得ないのは気の毒であるが東洋からの労働者移民を好まざる太平洋沿岸の与論の立場より見て特に日本が他の支那、印度より区別して考えらるべき筈のものでない、それに日本における移民制限問題を見るも外国人の土地所有、帰化権等の問題に関しては今回の米国移民法案と同様の過□なものである、殊に日本が米国より労働者の殺到するの脅威を持たずして日本政府が支那苦力移民を禁止し又日本帝国の一部である朝鮮人にさえ入国の困難を与えているではないか、要するに米国上院におけるロッジ氏の声明の如くに移民制限問題は主権を有する国家の最大なる根本権利である、日本はこれまで自国民に対する人種的経済的障碍ある外国移民の制限に対して何等躊躇しなかったから米国が今回同様なる権利を施行するに敢えて非難憤慨する理由はない筈である
(略)
つまり、1924年当時の日本としては植民地朝鮮に対する政策で諸外国から非難されるような状況を避ける必要があったわけで、これらを踏まえることで「朝鮮統治ノ大局」が見えてきます。「日本はこれまで自国民に対する人種的経済的障碍ある外国移民の制限に対して何等躊躇しなかった」という批判を避けるためには、植民地朝鮮における学校を内地と異なった制度で運用するという海外に対して体裁の悪いことは出来なかったと言えます。
実際、この「京城帝国大学ニ関スル件」を読み進めると、京城の大学は当初、朝鮮教育令に基づいて設置する方針で準備を進めていたことがわかります。「更に考慮の結果、最近に至りて成るべく本大学をして内地の帝国大学と同様ならしむる為〜」とあり、「京城帝国大学ニ関スル件」の1924年4月25日から見て「最近」何か方針を変更せざるを得ない事情が生じたことが読み取れるんですね。
ただ漫然と文字を拾って「なるべく両者に差がないようにすること。」などと訳しても意味がないどころか、「。」と打ってそこで文章が終わっているかのように偽装することで有害にすらなりえます。
もっとも作ろうとしているサイトが怪しげな現代語訳だけではなく原文も併記されるのであれば、上記のような背景情報を踏まえて研究する上で有用にはなりえるでしょうね。
ちなみに
はっきり言えば、植民地に大学を設立した事例は少なくありません。
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130708/1373297324
英領インドでは、1857年にボンベイ大学、カルカッタ大学、マドラス大学が設置されています。ボンベイ大学とカルカッタ大学の設立はロンドン大学の提案により1854年には設置が認められ、1857年1月24日にはカルカッタ大学法が施行されています。マドラス大学は少し遅れて1857年9月に設置法が成立しています。大学設置の請願は1840年頃からありました。
その他、マイソール大学(1916年)、オスマニア大学(1918年)、アーンドラ大学(1926年)、アンナマライ大学(1929年)、トラヴァンコール大学(1937年)などが設立されています。
1801年にイギリスに併合されたアイルランドでも、1845年にはベルファスト、ゴールウェイ、コークに王立大学が設置されていますし、イギリスの保護国だったエジプトでも1908年にはカイロ大学が設立されています。
フランスが仏領インドシナにインドシナ大学を設置したのは1906年、アルジェリアにアルジェ大学を設置したのは1909年*3、アメリカがフィリピンにフィリピン大学を作ったのが1908年です。
日本が植民地朝鮮に京城帝国大学を作ったのは1924年、植民地台湾に台北帝国大学を作ったのは1928年です。
大学に関して言えば、欧米の帝国主義国家がやっていたことを20年ほど遅れて日本が追随したと評するのが妥当でしょう。
植民地に大学を設立するのは別に珍しくもありません。
あと、これもちょっと紹介。
新聞記事文庫 政治(15-025)
大阪時事新報 1919.6.18(大正8)
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真に憂慮に堪えず
モンロー主義は御都合主義也
朝鮮に自治を許すは不可なり
我が七千万同胞の覚悟は如何
京都帝国大学教授 千賀鶴太郎博士談
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米国上院議員の一部に於て昨今英国アイルランド自治問題に対し声援を与えているものがあるしかしまさか米国政府が英国政府に向って公式に談判を開始する様の事はなかろう若しありとすればそれこそ内政干渉の甚敷きもので国際公法上の違反者である米国は元来モンロー主義を国是の大本としている以上他国の政策に干渉する事は出来ない筈であるに拘らず自国の商船を独逸潜航艇が誤って撃沈したのを表面の理由として無理から大戦に参加したのを見てもモンロー主義は実に御都合主義で自国の利益と見れば勝手な真似をするのであるから実に危険千番である現に我朝鮮植民地の独立を煽動するが如き言論を唱えている米国人がいるが其立論の根拠をば民族自決主義に置いているのだが彼の国是たるモンロー主義はさておき仮りに民族自決主義を是なりとせば彼は先ず自国に住するインデヤンに対し自決の方法を講じてやらなくてはならない筈である、それをせずして他国の植民地政策に干渉せんとするは言語道断といわなくてはならないしかし今次の大戦に於て独逸が根底から大敗し露国が崩壊したから所謂国際連盟が成立するとするも何等失う所なくして得る所のみ大なる米国は英仏を率いて己の欲するが儘に振舞うであろう即ち利益の存する所にはモンロー主義も国際公法も眼中におかなくなるであろう之を察せずして我国一部の論者は朝鮮に自治を許すがよいといっているが彼に自治を許せば即ち米国に乗ずる機会を与うるもので朝鮮は終に米国の植民地となるのを覚悟せなくてはならない故に吾人は朝鮮には現在の通りの政策を行う事を主張するものだが此の問題に関連して茲に非常に憂慮に堪えないのは国際連盟である、連盟国は其の規約に違反する事が事実不可能であり規約の執行は多数で行う訳だから、英米が将来朝鮮統治について如何なる干渉を試みるか之に対し我国民は覚悟していなくてはならないしかるに、我国知名の士にして国際連盟には賛成なりと平気でいっているものがあるが実に思わざるの甚敷いものである例えば朝鮮問題を外にして広く東洋問題について考えるに日支両国間に紛議起り国際連盟の規約により仲裁々判にかけるとせば英米が支那に党し我を排斥するのは今より予測出来るがかかる場合我主張を貫徹しようと思えば英米を相手に戦争せなくてはならないこれを思えば徒らに国際連盟の美名に憧憬すべきであるまい要するに米国は戦争に参加したとはいえ英仏の如く大なる犠牲を払わずして容易に独逸を屈服せしめたるを以て戦争すべく緊張したる国民は折角振上げたる腕を下ろすに由なき気分となり其言動終に常識を失うに至っているから世界改造の今日いかなる行動を敢てするか知れない殊に東洋に於て我と利害の衝突最も甚敷い彼に対して我国上下の覚悟は尋常一様では駄目である吾輩は実に深憂に堪えない次第である云々
100年前から大して変わってないですねぇ・・・。