“国際保健規則(IHR)が強制的なウイルス検査を禁止している”とかいう珍説

この増田。

強制的にウイルス検診を受けさせることは出来ない

ではまず、当方が眉をひそめた主張として「中国からの帰国者の一部がウイルス検診を拒否した件」へ寄せられた「強制的にウイルス検診を受けさせるべきだ」という類の主張である。
はっきりと言おう。これは日本政府どころか世界中の190以上の国家と地域は強制的にウイルス検診を受けさせることが出来ないようになっている。

国際保健機関(WHO)に加盟する190以上の国と地域は国際法として国際保健規則(IHR)に縛られている。

以下、厚労省の資料から引用する。

第三条 諸原則
1. 本規則の実施は、人間の尊厳、人権及び基本的自由を完全に尊重して行なわなければならない。

https://www.mhlw.go.jp/bunya/kokusaigyomu/dl/kokusaihoken_honpen.pdf

引用したPDFをご覧になった方は直ぐに理解できるであろうが、規則としての機能するであろう一番最初の明文が「人権の尊重」である。
今回の件に対応しなければならなかった日本の高級官僚はおそらくこのPDFとほぼ同じものを比較的早期に読むことになったであろうことは想像に難しくなく、そして一番最初に目へ飛び込んだのは「人権の尊重」だ。
日本政府はIHRによって人権の尊重を履行しなければならないので、ウイルス検診を拒否した者の意思をそのまま受け入れた日本政府の対応を非難するのは誤りある。
もし非難する点があるとするならば「説得の失敗」という点。ただしどのような説得があったか不明であるし結局は相手の人権を尊重しなければならないため、相手にやむを得ない理由などがあるのならば誰が説得しても困難だろう。
これは脅しているわけではなく1つの注意として、そう例えば忠言のようなものだと考えていただければ幸いだが日本国へ疫病を蔓延させんとする優しいアナタの主張は人権を脅かす可能性があるのだ。

https://anond.hatelabo.jp/20200221183446

IHRの第3条に人権尊重がうたわれているから強制的な検査はできない、と増田は主張しているようですが、日本国憲法にも人権尊重の条文がありながら、逮捕や刑罰あるいは医療措置としての強制入院とか入国拒否とかが合法的に行なわれていることを知らないのでしょうかね。

殺人を犯した容疑者を逮捕するのは人権尊重に反するとか主張している人なんていますか?少なくとも裁判所はそんな判断してませんし、諸外国もそれを非難したりはしてません。
非難されるのは、逮捕などで制限される人権がそれをしなかった場合に損なわれる他の人権に比べて著しく大きい場合ですよね。

感染している可能性の高い者が検査を拒否する自由は、その者の入域によって生じる地域内の感染拡大のリスクよりも常に勝るとは限りません。疾患の深刻さや検査の侵襲性の高さなどを考慮して判断されるものであり、公共の福祉による調整を受けるわけですよ。

実際、IHRの18条1項にはWHOの権限として次のような勧告ができることになっています。

第十八条 人、手荷物、貨物、コンテナ、輸送機関、物品及び郵送小包に関する勧告

1. 人に関して WHO が参加国に発する勧告には、次の助言を含めることができる。
(抜粋)
- 医学的検査を要求する。
- 疑いのある者を公衆衛生上の観察の下に置く。
- 疑いのある者に対して検疫措置その他の保健上の措置を実施する。
- 必要に応じて影響のある者を隔離し処置を実施する。
- 疑いのある者又は影響のある者の接触先の追跡を実施する。
- 疑いのある者又は影響のある対象者の入域を拒絶する。
- 影響のない者の影響のある地域への入域を拒絶する。及び
- 影響のある地域の人に対する出国時検査及び/又は制限を実施する。

https://www.mhlw.go.jp/bunya/kokusaigyomu/dl/kokusaihoken_honpen.pdf

これらはいずれも個人の人権を制限する内容ですが、IHRが強制的な検査を否定しているならこんな勧告を出す権限自体が矛盾していますよね。

「ダイヤモンド・プリンセス入港直後に罹患者を下船させることは困難だった」?

増田は「陸上の病院へ送致した時点でそこはもう日本の水際ではないのだ。」とか言ってますが、検疫法15条・16条には、検疫感染症(2条1号・2号)の場合に特定感染症指定医療機関又は第一種感染症指定医療機関・第二種感染症指定医療機関に委託して入院させ、隔離・停留させる権限を検疫所長に与えています。「緊急その他やむを得ない理由があるとき」は、そのような医療機関以外の病院、診療所に委託することも法律上、可能です。

実際、クルーズ船内で感染が確認された患者は直ちに陸上の病院に送致されていますね*1
これは検疫法15条の規定から当然の措置ですが、増田に言わせれば「陸上の病院へ送致した時点でそこはもう日本の水際ではないのだ。」らしいですねぇ。

そして、別に感染確認されてなくても「感染症の病原体に感染したおそれのある者」であれば停留することになりますが、その停留も船舶内でなければならないわけではありません。

(停留)
第十六条 第十四条第一項第二号に規定する停留は、第二条第一号に掲げる感染症の病原体に感染したおそれのある者については、期間を定めて、特定感染症指定医療機関又は第一種感染症指定医療機関に入院を委託して行う。ただし、緊急その他やむを得ない理由があるときは、特定感染症指定医療機関若しくは第一種感染症指定医療機関以外の病院若しくは診療所であつて検疫所長が適当と認めるものにその入院を委託し、又は船舶の長の同意を得て、船舶内に収容して行うことができる。

https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=326AC0000000201#59

条文から明らかなように、原則として「感染症の病原体に感染したおそれのある者」も指定医療機関に委託して入院させるのが基本であって、「緊急その他やむを得ない理由があるとき」に限って「船舶の長の同意を得て、船舶内に収容して行うことができる」ことになっています。

むしろクルーズ船内に収容し続けた今回の措置の方が法の条文上は例外的だったと言えますね。

もっとも、これらの隔離・停留の措置は検疫法上は、感染症法に規定する一類感染症新型インフルエンザ等感染症(検疫法2条)、あるいは新感染症(検疫法34条の2)に対して行なわれるものであって、それ以外の場合は政令で指定する必要があります(検疫法34条)。

新型コロナウイルスを指定感染症とする政令*2は1月28日には出ていますが、この時の政令では検疫法2条3号の感染症とし、検疫期間を2週間としただけで、検疫法34条が適用されるための指定を行っていませんでした(この理由がわからない・・・)。
そして、2月3日に「ダイヤモンド・プリンセス号」が入港し、それから10日も経った2月13日になってようやく「新型コロナウイルス感染症を検疫法第三十四条の感染症の種類として指定する等の政令」を出しています(施行は2月14日)。

新型コロナウイルス感染症を検疫法第三十四条の感染症の種類として指定する等の政令等について(施行通知)

正直言って、なぜ1月28日の政令の時点で検疫法34条を適用できるように指定してなかったのか、そして「ダイヤモンド・プリンセス号」が入港して10日も経ってから指定したのか、意味不明です。
政令ですから、国会での立法は不要で行政だけで対応できたのに、この体たらくはいくら何でも安倍政権の失態としか言いようがないんですよね。


ちなみに

未だに“中国人を入国禁止にしろ”とか言っているレイシストがうじゃうじゃいますが、そんなものに法的根拠はありません。

ただし、検疫法14条に基づき、「検疫感染症が流行している地域を発航し、又はその地域に寄航して来航した船舶等、航行中に検疫感染症の患者又は死者があつた船舶等、検疫感染症の患者(略)その他検疫感染症の病原体に汚染し、又は汚染したおそれのある船舶等について、合理的に必要と判断される限度において」隔離や停留といった措置をとることが出来ます。

2月6日の閣議決定では「本邦への上陸の申請日前 14 日以内に中華人民共和国湖北省における滞在歴がある外国人及び同省において発行された同国旅券を所持する外国人については、特段の事情がない限り、出入国管理及び難民認定法第5条第1項第 14 号に該当する外国人であると解する」という措置が取られましたが、これ自体に相当問題がありますが、それを置くとしても、この措置が新型コロナウイルスに関して出されたことを踏まえれば、感染症対策として「合理的に必要と判断される限度」を超えるわけにはいきません。

新型コロナウイルスの蔓延状況は武漢湖北省とそれ以外の中国では明らかに異なっていますから、それらを一緒くたに排除する“中国人を入国禁止にしろ”などということは感染症対策ではなく排外主義であり、差別に他なりません。