某社会学者が意図せず炎上しているのを見て思ったこと

まあ、生物学的性差を絶対視する一派のフェミニズムであれば、性的少数者をどう扱うかで混乱するのはさもありなん、という感想。

生物学的女性が常に被害者であり生物学的男性が常に加害者であるとする教義にしたがえば、自認している性が何であれ生物学的男性は生物学的女性にとって警戒の対象でしかなく、むしろ女性だと自認する生物学的男性は“味方の振りをした敵”に見えるであろうなぁ、と。

私の個人的理解では、フェミニズムというのは、文化的な性別分業が残る中で生じる抑圧を解消する運動であり、歴史的な経緯から一般的に男性が抑圧する側の地位にあり、女性が抑圧される地位にあることが多く、それゆえに、社会的な意味での抑圧者としての“男性”による支配の解消と社会的な意味での被抑圧者としての“女性”を解放することが主眼となる、というものです。
社会的な意味での被抑圧者としての“女性”を解放することが主眼であるから“feminism”なのだという理解。

この場合の“男性”とは社会的な意味での抑圧者を指す代名詞であって、必ずしも生物学的男性に限らないというのが大事な点ですね。

例えば、多くの職種で男性が支配的な地位についており、女性は就業において不利な地位にあり、法的には平等でも文化的には不平等が多く残っています。これは典型的な男性優位・女性差別の社会構造ですが、一方で、家事・育児については女性の方が優秀であり、男性は劣っているとみなす文化もあります。家庭レベルの家事・育児でも、男性は女性よりも劣っているという認識での言説は多いですし、保育士等の職種では男性が不当に扱われることもあります。このように特定の場面で男性が不利に扱われることを男性差別・女性優位と言えなくもありませんが、それは社会的な意味での抑圧者の地位に生物学的女性がいることが多いというだけであって構造的には、社会的な意味での抑圧者としての“男性”による支配の構造とも言えます。

社会的な意味での抑圧者としての“男性”による支配の解消と社会的な意味での被抑圧者としての“女性”の解放というのは、(生物学的)男性優位の職種において、男女が平等に扱われることを目指すことであると同時に、(生物学的)女性優位の場面においても、男女が平等に扱われることを目指すことであるというのが私の認識であり、それこそがフェミニズムであろうと考えています。

ですから、生物学的女性が常に被害者であり生物学的男性が常に加害者であるとする教義のフェミニズムを、私は受け入れることができません。

で、ですね。
“男性”による“女性”の抑圧というものを、社会的な意味での“男性”“女性”であって、必ずしも生物学的性別と一致しないという考え方をすると、性的少数者をどう扱えば良いかがわかりやすくなります。

例えば、文化的な性別分業の残る社会では、男性が支配的な職種が多く残る一方で、女性が支配的な家事・育児(あるいは一部の職種)という場面が残っていますが、そのような文化的な性別分業に当てはまらないのが性的少数者ですよね。
生物学的女性は多くの場面で男性優位といった抑圧に直面するものの、一部の場面では女性優位の地位を得てもいます。それに対して、性的少数者にはそのような自らの属性が優位に働く場面が皆無です*1

これを、社会的な意味での“男性”、“女性”で見ると、性的少数派は常に抑圧される側、すなわち“女性”の立場になるわけです。

である以上、基本的には抑圧される側である性的少数者の人権を守ろうとするのが、フェミニズムであるべきだというのが私の理解です。



*1:ごくごく一部の特殊な場面は存在するものの