廠窖虐殺事件

江南殲滅作戦における日本軍による虐殺事件 - 誰かの妄想・はてな版の続き的な話。

廠窖虐殺事件は日本語読みなら「しょうこうぎゃくさつじけん」でしょうが、日本ではあまり知られていません。中国側では「廠窖惨案/厂窖惨案」、英語だと「Changjiao massacre」となります。
犠牲者数は3万人と言われ、その内訳は、廠窖及び近隣住民1万3000人、それ以外の地域から避難してきた難民が1万2000人、駐留していた国民党軍第73軍の兵士5000人*1
もちろん、南京大虐殺と同様に、廠窖及びその近辺で生じた数百人、数千人規模の多数の虐殺事件の総称が、「廠窖惨案」であって、何も3万人を一箇所に集めて一斉に殺したわけではありません。

虐殺を行った日本軍部隊

江南殲滅作戦の司令官は第11軍司令官の横山勇中将で、戦後中国側は廠窖虐殺事件での戦犯訴追を求めたようですが、既に九州大学生体解剖事件などで逮捕、1948年8月に絞首刑判決が出され、後減刑されたものの、巣鴨プリズンで病死したため結局廠窖虐殺事件では立件されていないようです。

直接の実行部隊は中国側の主張によれば、独立混成第17旅団、戸田支隊、小柴支隊、針谷支隊が挙げられています。
戸田支隊は、第40師団の歩兵第234連隊長戸田義直大佐を支隊長とした歩兵1個大隊+工兵1個中隊(工兵第40連隊第3中隊)の割と小規模な部隊です。
小柴支隊も、同じく第40師団所属で、歩兵第236連隊長小柴俊男大佐*2を支隊長とし、第236連隊第3大隊に戸田第234連隊の第3大隊、独立山砲第2連隊第2大隊、工兵第40連隊(第3中隊欠)を付けた歩兵2個大隊+砲兵1個大隊でかなり火力の充実した部隊です。
針谷支隊は、第34師団所属の第218連隊長針谷逸郎大佐を支隊長をし、第218連隊第3大隊に第216連隊第3大隊、工兵1個中隊をつけた歩兵2個大隊の部隊です。

戸田義直、小柴俊男、針谷逸郎とも廠窖虐殺事件で審判を受けていませんが、階級が低かったためと言われています。

また事件当時、独立混成第17旅団の旅団長だった高品彪少将は事件後、第29師団長としてグアム島に派遣され、1944年6月に上陸したアメリカ軍に敗北、1944年7月28日に高品師団長は戦死しています。このため、戦後の戦犯裁判の訴追対象とはなっていません。
なお、高品彪の実子で終戦時、陸軍大尉だった高品武彦氏は戦後、陸上自衛隊に入り統幕議長にまでなっています*3

各隊の行動

独立混成第17旅団は5月7日に安郷を占領、小柴支隊は5月9日に南県を占領、戸田支隊は5月10日に三仙湖鎮北東で中国軍を包囲撃滅しています。これらの部隊は陸上からの包囲を担当していました。
針谷支隊は洞庭湖上機動を担当。この際、武装汽船を使って洞庭湖上を逃れようとしていた国民党軍や避難民を攻撃するなど水上からの包囲を担当していました。

ちなみに独立混成第17旅団が安郷を攻略した5月7日、麾下の独立歩兵第90大隊の大隊長、舛尾芳治中佐が戦死しています。
江南殲滅作戦の作戦期間を通して、独立混成第17旅団は、舛尾大隊長の他、浅沼吉太郎第87大隊長(6月7日)、小野寺實第88大隊長(6月6日)が戦死しており、旅団麾下の5個大隊中3個大隊の大隊長が戦死という大きな被害を出しています*4

*1:http://baike.baidu.com/view/373912.htm 中共南県人民政府による記念碑文

*2:ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊博士の実父。

*3:1978-79年

*4:「陸軍中将山崎保代外十九名賞与ノ件」(アジア歴史史料センター:A04018712500)に、これら3名の大隊長が「危篤」と表現されています。特別賞与と一階級昇進となっているので戦死と判断していいでしょう。この史料のタイトルにある山崎中将はアッツ島で玉砕した部隊の指揮官ですが同じく「危篤」と表現されています。