父のこと

このブログでは特に私自身の個人的な話はしてこなかったのですが、直近の出来事に思うところがありましたので少しだけ書いておきます。

私の父は1937年3月の生まれで、戦争中は食べ物がなくサツマイモばかりだったそうです。父の父、つまり私の祖父は放蕩者で身代を食いつぶし、元々は貧乏でもなかったそうですが、父の幼少時代には相当苦労があったと聞いています。父は家事(畑仕事など)のため小学校・中学校も満足に通えず、成績自体は悪くなかったものの高校には行けませんでした*1
1955年頃、父は自衛隊に入隊し、北海道に配属されています。M1カービンの特徴や迫撃砲、バズーカ訓練での裏話などをよく聞かされました。父は計算が得意だったため、通信班で暗号電文の複号を担当していたそうです。
2〜3年くらい勤務した後、除隊し一度故郷に戻りましたが、自衛隊勤務中に父の母が癌で亡くなり、父は実家の居心地が悪かったのかしばらくは故郷にとどまっていたものの1965年頃、大阪に出て働き、そこで母と出会い結婚しています。父は中卒だったため良い職に恵まれなかったようですが、某商社と某業界新聞では才能を認められ、長く働きました。その後、北陸地方の各地と働き場所を変え、北陸に落ち着き、2000年頃に定年を迎えるまでそこで働きました。北陸には母の実家も近かったため、それなりに便利でしたが、冬の積雪が大変で子供も独立してしまった後ではそれほど思い入れもなく、関西に引っ越しています。
父にとっては大阪で過ごした30代の頃が、大変ではあっても良い思い出がたくさんあったのだと思います。

父が倒れたのは2012年夏でした。腸閉塞で苦しんだため救急車で病院に運ばれ、緊急措置を行いましたが、そこで原因が大腸癌だと判明し3日後に緊急手術することになりました。手術前には、肺や肝臓にも転移した末期がんであることがわかっていました。
手術日には私も会社を休んで病院で待機しました。手術室に入る前に父は私の手を握って「俺は帰ってこれるかな?」と尋ねました。私は「手術で死ぬことはないよ」と笑顔で返しました*2
手術の予定は6時間、3時間が経過したところで執刀医に家族が呼ばれました。
状況は、切除不可能。
肺や肝臓への転移以外に腹膜播種が見られるStage4の末期癌、小腸も癒着気味。決定的なのは、腸閉塞を引き起こした癌のある大腸を切りとろうとした時点で血圧が急激に下がり危険な状態になったことで、手術に耐えられない、と判断されたことでした。
執刀医は、癌を残したまま人工肛門の設置のみ行うことを提案。私は大腸の癌を取り除くことだけでもできないか質問しましたが、執刀医の回答は、血圧がまた急激に下がる懸念があり、そこまでして大腸の癌だけを取ってもあちこちに転移しているためメリットが少ない、またメスを入れる場所が増えるほど体の負担が大きい、とのこと。
私はこの時、原発巣を取り除いた後、転移癌は抗がん剤で何とかならないか、と考えて質問しましたが、執刀医の説明は納得できるものでした。
もちろん、手術による治療をやめるということですから、後はどのくらいの余命があるのか、ということになります*3

執刀医の説明では、余命はあと1ヶ月。母は目の前が真っ白になったようですが、「しょうがないこと」と自分に言い聞かせ、その後葬儀の手配や親戚への連絡などをてきぱきとこなし始めました。後日、母に聞いたら、その時のことは覚えていない、と答えたくらい自動的にやるべきことをこなしていたようです。

父は手術後、しばらくICUにいましたが、後に病棟に移ります。大手術から生還したことで喜んでいたようですが、手術の跡が痛むようで、この回復にはしばらくかかりました。母は毎日、父を見舞い、私も可能な限り見舞いに行きました。
執刀してくれた主治医に何度か話を聞くことがあり、その際に抗がん剤は使えないか聞きましたが、全身状態(PS)が悪いため投与できないとの説明でした。大腸癌治療ガイドラインでは、抗がん剤の投与はPS:0〜2であることが必要です。PS:2とは「歩行や身の回りのことはできるが、時に少し介助がいることもある。軽労働はできないが、日中の50%以上は起居している。」状態です。ほとんどベッドで横になっている状態の父は、PS:3〜4、主治医の表現では「4に近い3」でした。抗がん剤の投与ができる状態ではありませんでした。

もちろん、手術で癌を取らず化学療法も行わなければ、治るわけがありません。
この頃、私が願っていたのは、父がPS:2まで回復することでした。実際、手術の傷は順調に回復し、歩行器を使って歩ける程度には回復し、余命も1〜3ヶ月、と修正されました。
PS:2まで回復すれば、化学療法ができるかも、とは思いましたが、一方で化学療法でも治らない可能性が高いこと、化学療法で生じる副作用が重いことも知っていましたので、この頃の自分は治癒をあきらめつつあったのも確かです。
父は歩行器を使って辛うじて歩ける程度になりましたが、それが限界でした。

治療の手段がなく、緩和医療に移ることを主治医と家族、緩和医療の医師と話し、医師の方から父にも説明がなされ、緩和医療の病棟に移ることになりました。
緩和医療の病棟では、致命的な疾患に対する治療は行いません*4

病棟はそれまでと違い個室で、家族は時間制限なく面会することができます。
食べ物についても、食中毒を起こすような物でなければ何を食べてもいい、という許可がありましたので、父の好きな物をたくさん買って食べてもらいました。

この頃の私は、化学療法をやらなくて良かった、という気持ちが強くなってました。もし化学療法をやっていたら、重い口内炎*5や末梢神経症*6などの副作用で食欲も低下していたはずです。

父は好きな物をたくさん食べることができ、家族と色んな話ができ、体は不自由ながら食欲は維持され、癌性疼痛なども見られませんでした。看護師のケアも手厚く、2時間ごとに床ずれしないように体の向きを変えたり、人工肛門のケアなど、家族だけでは到底できなかったであろう対応をしてもらいました。

当初8月一杯、あるいは秋まで、いいとこ年内だろうと言われていた父ですが、緩和ケア病棟の中での長命を保ち、年を越した1月中旬に亡くなりました。手術からほぼ6ヶ月生存しました。

正月には餅を食べ、寿司を食べ、と上体を起こすことも困難ながら、話も食事もできる状態で、痛みに苦しみもしませんでした*7。成人式の頃に食べれなくなり、話もできなくなり、その3日後には目も開けれなくなって、それから3日後眠るような感じで呼吸が止まりました。苦悶の表情などもなく、看取った者から見れば安らかな死に方でした。

直接の死因は呼吸停止でしたから、人工呼吸器などの延命措置はこの時点では可能でしたが、父も母もそういった延命を望んでいないことを主治医に伝えていたため、そのまま送ることになりました。享年77歳。

思うこといくつか

父が大腸癌を患ったこと自体は紛れもない不幸でしたが、それ以外にはいくつもの幸運や周りの支援がありました。

・病院が実家から近かったこと
・母が毎日見舞いに行きやすかったこと
・私自身も勤めている会社が見舞いのために色々配慮してくれたこと
・父が癌性疼痛に悩まされず、鎮痛剤の使用が最小限だったこと
・父がぎりぎりまで食べようとする食欲を維持してくれたこと
・緩和ケア病棟が付随している病院であったこと
・緩和ケア病棟から追い出されることなく転院しなくても良かったこと
・医師も看護師も最善を尽くしてくれたこと
・金銭的な制約に縛られなかったこと*8

他にも色々ありますし、もっと父にしたいことはありましたけど、家族としては充実した6ヶ月を過ごせたと思います。自分もいつか死ぬと考えた時、父のように死ねれば良いな、と思えます。
6ヶ月という期間も、父と最期の時を過ごし、心の準備をするには十分な時間であり、また看病・見舞いの疲れが具現化するには至らない時間でした。そのため、早すぎるという悔いは少なく、看病疲れで早く死んでくれと望むようなこともなく別れを迎えることができたと思います。

他に病院をたらい回しされ杜撰な看護で亡くなった人や、疼痛に苦しみ麻酔を処方したものの意識も朦朧として家族とほとんど話せなかった人、入院から死亡まで短く見舞いが間に合わなかった人、看病疲れで早く死んでほしいと辛い望みを抱くようになった人などを考えると、私と父の場合は、やはり幸運だったと思います。

念のため

結果として、父の場合は化学療法をしないことが良かったと私は思っていますし、主治医も状態を踏まえた上でその選択をしたのだと思いますが、もちろん抗がん剤治療を否定するものではありません。
もし、手遅れになる前に早めに癌を発見していれば、腸閉塞による体力低下をする前に手術で切除が可能だったかもしれませんし、切除できなくとも全身状態が良ければ抗がん剤の投与もできたはずです。そういった状況であれば、医者嫌いの父を何が何でも説得したと思います。

また、延命治療をしなかったのも、父や母が以前からそのように話していたこともありますが、最期の時にそれほど苦しんでいる様子がなかったことも大きいですし、その時までに6ヶ月間、心の準備をする猶予があったこともあります。
これが8月末に激しく苦しむような状態であったら、その場で延命治療をお願いした可能性も捨てきれません。なので、そういった選択をする他者を責める気にはなれません。人にはそれぞれ事情があります。そういった面を考慮せず、国の予算の話で延命治療の是非を論じるようなことはすべきではありません。

*1:父から聞いた話なので、父の知らない事情もあったのかもしれませんが。

*2:私自身は、手術でどこまで癌が取りきれるか、については心配していましたが、手術そのもので死ぬことはまずないだろうと思っていました。後で主治医の話を聞いて、そうとも言えないことがわかりました。

*3:私は化学療法への期待もまだ捨てていませんでしたが、執刀医は既にそれも難しいと見ていたようです。

*4:風邪などの場合には薬が出ますが。

*5:5-FUの副作用

*6:白金製剤の典型的な副作用

*7:確認したわけではありませんが、出されていた薬剤を見ても、鎮痛剤、麻酔の類は使っていませんでした。

*8:各種保険の手助けの他、自分や母にもそれなりの余裕があったので金策に困るようなことはありませんでした。ただ、化学療法が行われ、保険適用のレジメンが効果なく、保険なしのレジメンが必要になった場合はどうなっていたかわかりません。