RAAの慰安婦とダンサーの分類はあまり意味がない

RAAには最盛期7万人の慰安婦がいたとされますが、慰安婦とダンサーなどを分けて考えるべき、といったコメントがありました。ダンサーは自由意志売春で強制売春ではなかったという趣旨かと思いますが、ダンサーも事実上は売春を強要された被害者です。

「東京闇市興亡史」 (ふたばらいふ新書)から。

(「生贄にされた七万人の娘たち」真壁 旲P243-244)
 ダンスホールはワンステージ(約三〇分)二円だったという。原則として、ここでは売春はしないことになっていたが、その原則が生きていたのは、ごくわずかの期間だけだった。ダンス専門の女性は黄バッジ、慰安婦は赤バッジで区別していても、赤バッジが足りないと、ダンサーが容赦なく襲われた。酔った米兵にピストルをぶっ放されおどされ、ジープでさらわれて犯されたのがきっかけで、泥沼へのめり込んだ女や、甘い言葉と一個のパンの誘惑にくずれていった女もいた。
 初めから、それを狙ったものもあった。マーク・ゲインが“世界最大の妓楼以上のもの”と驚いた小岩のインタナショナル・ハウスである。

  現地調達した女の性病予防
 二六〇室ある建物の中には、食堂を改造した大きなダンスホールがあり、意気投合した米兵とダンサーが、自分の部屋にしけ込む勧銀頭取・西田太郎の甥・原田源之助が、精工社*1の女子工員寮の建物をもらいうけ、坂総監の指導の下に拵えたものであった。売春のあがりは一応折半となっていたが、借金で縛られた女たちは、“女郎”そのものであったという。
「開所式の前日、というから十一月二十七日、野人タイプの坂総監が、裸になって、女たちといっしょに風呂にはいって、彼女たちのからだを、ひそかに親閲したというエピソードがある。
『堂々たる体格の女がそろっていて、前をかくしたりしない。横綱の土俵入りだ。これなら、アメリカ兵に太刀打ちできると思った』」(神埼清『池田勇人と戦後の売春』)

小岩のインタナショナル・ハウスは別名、東京パレスと言い、RAAがオフ・リミット(立入禁止命令)後は東京パレスの名前が正式名称となっています。また、元は精工舎の「女子工員寮」とありますが、実際には男子工員寮だったそうです*2。それはともかく、インタナショナル・ハウスでは、ダンサーという分類にあっても、実態は慰安婦であり売春を強要された被害者だったわけです。ダンスは、客が売春相手を選定するための顔見世に過ぎませんでした。